防衛大学校 国際政治学教授 神谷 万丈 氏
――近年では安全保障と経済が切り離せない関係になっている…。
神谷 今は安全保障の土台として経済や科学技術がますます重要になっている。日本は敢えて軍事力を抑えているため、経済や技術の力が特に大事なのだが、「失われた20年」と中国の台頭でそれが怪しくなった。そういった背景から、近年では安全保障や外交の専門家が集まって日本の今後の大戦略についての研究会を開いても、経済や科学技術に関する話から始まることが多い。また、米国は最近中国に厳しくなったが、それは安全保障面で危機を感じているだけではなく、経済力や技術力で中国に出し抜かれてしまうという危機感があるのだと思う。中国は今後の重要産業となる人工知能(AI)でも、人口が多い上に人権やプライバシーなどを全く気にしない政治体制であることから巨大な実験が可能で、結果として膨大なデータが集まる。これは脅威だ。我々は自由や人権を重んじ、リベラルで民主的な体制の方が経済的にも技術的にも成功すると思ってこれまでやってきたが、中国はそうではないのに成功しつつある。
――仮に体制間競争の中でリベラルデモクラシー側が劣るという事になると…。
神谷 現在の発展途上国が「欧米や日本側につかなくてもよい」と思えば大変なことになる。自由にしないほうが好都合と考えるリーダーは多いからだ。自由民主主義の国々が経済競争や技術競争で中国に負けるようなことが起これば、世界は中国側についてしまう。そうならないようにするために、日本も経済と技術という二つの面で何とか頑張らなくてはならない。我が国の外交安全保障の専門家達も、体制間競争の中での経済と技術の比重をもっと重く見る必要がある。そして、自由民主主義の国を中心とした、米国のリーダーシップのもとこれまで維持されてきたリベラルな秩序の本質を、中国の自己主張が強まっても維持していかなくてはならない。とはいえ、トランプ大統領にその意思や戦略があるのかどうかは疑問だ。その場その場で儲かれば良いという感じのトランプ大統領には、近づきすぎると梯子を外されるおそれもある。それは、彼のこれまでの行動からも明らかだ。
――対中国で経済に関しては一緒に進もうと考えていた国々も、巨大化すると問題が顕在化してくる…。
神谷 日本が戦後焼け野原の状態から経済大国になったことを考えると、中国だけに対して巨大になったこと自体を問題視するのは不公平だと思う。だが、日本や欧米をはじめとする自由民主主義の国々は、中国が豊かになればそれなりに民主化して国際的なルールも尊重するようになっていくだろうと考えていた。ところが10年程前からだろうか、中国は豊かになればなるほど自己主張が強まり、国際的なルールも尊重せずに力づくで自分の利益を追求するという姿勢が目立ってきた。米トランプ大統領が唱える米国ファーストに対して日本をはじめとする殆どの国が不都合だとは感じているが、中国はいわばいつでも中国ファーストで、その度合いはますます強く押し出されるようになっている。それを野放しにはできないと日本は長い間感じてきており、米欧やオーストラリアなどもそれに気づいてきた。実際に、中国の軍事費は20年以上前からほとんどの年で二桁成長し、この10年でも2倍に増えた。そして、ものすごい勢いで軍事近代化と南シナ海、東シナ海などへの海洋進出が進んでいる。
――日本の安全保障はどうあるべきか…。
神谷 リベラルなルールを基盤とした秩序、つまり米国を中心としたこれまでの秩序をいかに守るかという観点から考える必要がある。ルールを尊重するという事の意味は、「強くとも力で弱い国を圧迫して国益を増進しようとしない」ということだ。もちろん米国も随分勝手なことをしてきたが、力の大きさの割にはそれが少なかった。だが、中国に同じことを期待できるかと問われれば、それはない。少し前まで日本が中国に対して少し厳しすぎるのではないかと思っていた諸外国も、欧州はロシアのクリミア・ウクライナ問題が起きたことで「日本人が中国に対して言っていたことはこういう事か」と気付き、トランプ大統領は米国ファーストを唱える中で米国が偉大ではなくなる世界が来るかもしれないことに気が付いた。だからといって関税を引き上げるやり方はどうかと思うが、昨年10月にペンス副大統領がハドソン研究所で行った、米国の中国との対決姿勢を鮮明にした「第2の『鉄のカーテン』演説」とさえ言われるあの演説に対して殆どの自由民主主義の国々が批判しなかったのは、中国を勝手気ままに振舞わせることは良くないという点で一致していたからだろう。
――アジアの経済と安全保障を考えた場合、これまで中国は安全保障面では脅威である一方で、経済面では大きな可能性や機会を与えてくれる国として扱われていた。それが最近変わりつつある…。
神谷 ようやくみんなが「そんな風に分けることが出来るのだろうか」と気づき始めたということだ。少なくとも米国は、経済だからと割り切ることが出来なくなっていることを、トランプ政権の人たちだけでなく民主党や経済人など社会全体が認識してきている。中国の会社には多かれ少なかれ共産党がバックについているため、この国の企業と一緒に商行為を行うことが政治安全保障面に悪影響を与えかねないという事を考えざるを得ないからだ。日米や自由民主主義国の間では中国に対して、経済だから協力、安全保障だから対立、という区分は今や必ずしも適切ではないというコンセンサスが出来てきたように感じる。
――北朝鮮問題については…。
神谷 北朝鮮は核とミサイルを除けば弱小国で、抑止力も効く。北朝鮮は主義主張のためであれば自殺もしかねないと思っている人がいるようだが、この70年の歴史の中で北朝鮮は明確な自殺行為に出たことはない。それに、指導者たちのライフスタイルを見ればわかるが、自分のまわりに美女を集め、寿司職人まで雇って美食を楽しんでいるような人生の快楽を追及する人たちに対しては、脅しが効くものだ。その意味では騒ぎすぎる必要はないと思っている。とはいえ、あの国の核とミサイルの能力が高まり、東アジアや北東アジアに影響を及ぼすようになってきていることにどう対応するのかはしっかり考える必要がある。これまでこの地域の安全保障秩序は、日本が軍事力で自己抑制していれば他の国は無茶をしないという考えが、長い間土台になってきた。能力もお金もある日本が核兵器に手を出さなければ他の国々も核は持たないといったことだ。しかし、北の核武装が黙認されると韓国もということになりかねない。そうなると、もはや北東アジアではモンゴル以外は皆核を持っているという状態になり、そこで「なぜ日本だけが我慢しなければならないのか」と人々が思い始めると、日本が核を持つのは損だという立場をとっている私のような人間でさえ説得材料がなくなってくる。また、北朝鮮が米国に届く核ミサイルを完成させた時、果たして米国は日本に対する北朝鮮の暴発行為に対して報復攻撃をしてくれるのだろうか、という心配も出てくる。冷戦時代にフランスのシャルル・ド・ゴール大統領は「パリが攻撃された時に米国は自国の主要都市がやられるとわかっていて報復するのだろうか、しないだろう」と言い、米国の核の傘から脱退して自国で核兵器を持つことを決めた。トランプ大統領は、最初は北朝鮮に対して完全で不可逆的な非核化を求めていたのに、昨年のシンガポールでの首脳会談以来、先が読めなくなってきている。北朝鮮は一昨年、水爆やアメリカ全土を射程圏内に入れたミサイル、北海道上空を飛んだ中距離ミサイルなど色々な実験に成功し、かなり能力を高めている。心配な状況であることは間違いない。
――日本に対する行動がエスカレートしている韓国についてはもはや打つ手がないようにみえる。今後の周辺国とのあり方について、日本はどうすべきか…。
神谷 韓国の文大統領に関しては北朝鮮との関係改善に前のめり過ぎるところがあり、その一方で日本との関係をまったく顧みない。国際政治において「合意は拘束する」という原則があるが、それが慰安婦問題、徴用工問題と、どんどん崩れてしまっている。1990年代に日韓関係が悪くなった時は、韓国のいう事が全部正しいとは言わないが、確かに日本にも問題がなかった訳ではないと思う事もあった。しかし昨今の話は日本側にはまるで非がない中でのいいがかりとしか言いようがない。大多数の日本人がそう思っている。基本的に日韓関係は大事だと思っている私も、今は困惑するばかりだ。北朝鮮に対しては国際社会からの圧力が必要で、中国やロシアがそこから退き気味な今、韓国は日米とともに協力して重要な役割を果たさなければならないはずなのだが、韓国がこのような状態ではどうしようもない。昨年12月に出された新しい防衛大綱では、日本の安全保障環境が想定以上の速度で悪化している旨を言明しており、かなり注目を浴びていたが、その後レーダー照射問題という思いもかけぬことが起こってさらに事態は悪化したと言わざるを得ない。もちろん日韓関係が素晴らしく良くなると予想していた人は誰もいなかったが、そうは言っても最低限の協調をしていくべきだと思っていた。だが、それすらも出来なくなってきている。日韓関係を改めて見直し、新たな対応を考えなければいけないだろう。(了)