金融ファクシミリ新聞社金融ファクシミリ新聞

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時代は欲望から持続可能性へ

大和証券グループ本社  取締役会長  日比野 隆司 氏 

――リーマン・ショックを振り返って…。

日比野 リーマン・ショックの足音は07年のパリバショックの頃から聞こえており、随所で金融危機への警鐘も発せられていた。そして、08年3月に米証券大手のベアー・スターンズがJPモルガン・チェースに救済合併されたことで危機感は更に高まった。当時、大和証券はリテール業務とホールセール業務を分社化していたのだが、マーケットにおけるデリバティブの価格がすでに大荒れになっており、グループ全体の経営へのインパクトも大きかった。そのため、異例の対応ではあったが、08年7月から当時持株会社の専務として企画を担当していた私が大和証券SMBCの商品管掌を兼務し、難しいポジションの整理に取り掛かっていた。それが、リーマン・ショックが起こる2カ月前だ。複雑に入り組んだポジションはもはや会社のバランスシートから外すことができない状況になっており、結局、そのポジションを一掃できたのは、私が社長になってから数年の後だった。今では非常にきれいな状態になっている。日本はリーマン・ショックによる実体経済の痛みが大きく、さらにその後、東日本大震災という不幸な出来事もあったため、危機の発端だった米国に比べて株式相場の戻りが遅かった。その傷がほどほど癒えた頃に安倍政権が誕生してアベノミクスがスタートし、一気に為替も株も戻り、ほどなく我々の格付けもBBB格からA格に戻すことが出来た。日本の金融システムはバブル崩壊後10数年もの時間を要したものの、既に、健全な形になっていたため、金融システム全体が揺らぐという事はなかった。それでも、リーマン・ショック時の一時的な資金繰りは本当に大変だった。1997年の日本の金融危機時よりもましだったが、それなりに苦しい経験をした。

――リーマン・ショック時と97年の金融危機時の違いは…。

日比野 97年頃の日本は、バブル崩壊後数年が経っていたとはいえ不良債権の処理が終わっておらず、そこにデフレの波がじわじわと押し寄せてきていた。私の理解では、金融機関の健全化が完了したのは2003年5月のりそな銀行への公的資金の注入時であり、マーケットもそこで綺麗にボトムアウトしている。97年7月にタイから始まったアジア通貨危機はバブル崩壊後の損失処理を皆で飛ばしながら先延ばしにしてきた日本の金融機関に更なる打撃を与えた。とうとう飛ばしきれなくなった瞬間の97年11月は、本当に毎週のように大手金融機関が破綻していった。当時は山一證券を助けるだけの体力も残っていないほど日本全体が弱っていた。一方で、リーマン・ショックは日本発ではなく、また、大きな被害を受けたのは運用している人たちであったため、銀行などの間接金融はそこまで大きな影響を受けていない。我々のリーマン・ショック当時の含み損がどのくらいだったかは定かではないが、最大で1~2千億円くらいだろうか。主に複雑なデリバティブに絡む含み損は、代替ヘッジを繰り返しながら時間をかけて無くしていった。流動性のない30年債があるとして、5年債をその30年債の額面の何倍かショートするような話だ。もちろん、実際の値動きはマーケットの上下や為替によって不規則に変化するため、計算通りに収まる訳ではない。きれいなバランスシートにするにはかなりの期間が必要だった。

――当時、一番苦労したことは…。

日比野 我々の利益の源泉の一つである仕組債ビジネス自体を抑制する中で、債券部門の収益を上げていく点で苦労した。幸いマイナス金利ではなかったため通常の債券ビジネスでも少しは利益が出て救われた。また、デリバティブ関係のポジション管理の精度をあげるためにシステム関連のレベルアップを図り、海外から多様な人材を集めて刷新した。本当の意味での最先端の金融工学を学んだ人たちを雇うためには、かなり高い人件費が必要だったが、それがなければ当時の対応は無理だったし、必要だったと思う。デリバティブ市場自体はリーマン・ショックを経て縮小しているかと言われれば、そうではない。机上の理論だけで存在するような複雑系のデリバティブ商品は無くなってきたが、一方できちんとコントロールできるようなデリバティブ関連商品・仕組債は残っており、むしろボリューム的には増えてきているのではないか。

――リーマン・ショックを機に、デリバティブ市場が整理されたと…。

日比野 デリバティブ市場も証券化市場も、ある意味、地に足のついた形になったと思う。リーマン・ショック以降、世界の投資銀行のビジネスモデルは根本的に変わり、過度にリスクを取った自己投資が否定され、顧客に根ざしたビジネスを行うようになった。BIS規制で金融機関の健全性を徹底的に求められるようになったことも、大手金融機関発の金融危機やそれを救うための税金投入などの再発防止に役立っている。だからといって今後何も起こらないとは言い切れない。超金融緩和が10年も続いた結果、随所にバブル的現象は存在しており、警戒を解くわけにはいかない。また、リーマン・ショックを契機として、企業活動の価値観も大きく変化した。ESG(環境・社会・ガバナンス)、SDGs(持続可能な開発目標)、或いはCSV(共通価値の創造)などの概念が拡がり、時代はgreed(欲望)からsustainability(持続可能性)へと変化してきている。そうしなければ存在が許されないということだろう。

――リーマン・ショックを経験した教訓、そして今後の大和証券の方向性は…。

日比野 マーケット部門の人間の教訓としては「コントロールできないポジションは持たないこと」だ。表面上は大丈夫に見えても何かあった時にコントロール不能になるというようなことはよくあることだ。実際にリーマン・ショックの時もコントロールできるつもりでやっていた。その辺りをきちんと見極めることの出来る目を持たなくてはならない。また、ショックに耐えられる経営構造を構築するため、伝統的な証券業務に加えて、ネクスト銀行やリアル・エステート・アセットマネジメント、エネルギーなど、世の中の動向を見ながら証券に関連する成長分野に随時資源を投入し、事業ポートフォリオの分散を図っているところだ。もちろん、コアの部分は日本の証券市場であり日本の顧客基盤だが、準マザーマーケットはアジアだと考えている。新しい分野、地域への拡張的な金融のコンセプトを保ちつつ、ただ、いきなり飛び地に軸足を乗せることはせず、これからも至極真っ当な形でやっていきたい。(了)

【訂正】11月12日分のインタビュー中の第2段落目で「先ず驚いたのは、MMF が“The ReservePrimaryFund”という」を「先ず驚いた のは、“The ReservePrimaryFund”というMMFが」に 訂正します。

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