蔵前工業会理事長
元財務省国際局長
井戸清人 氏

――トランプ関税はどのように世界経済を変えていくのか…。
井戸 トランプ米大統領は第1次政権時にも関税引き上げを行っていた。今回は、関税を材料に各国とディール(取引)を行い、最終的に貿易収支の不均衡を是正すると同時に、国内の製造業を再活性化する狙いだ。就任早々に関税措置を発表したのは、来年の中間選挙に向けてなるべく早く各国と合意し、経済成長を促し成果を残したいからだろう。ただ、今回の措置によって、高所得国である米国において製造業の雇用にどの程度効果があるのかは疑問だ。国内のインフレリスクや、投資・消費が減退し経済が低迷するリスクの方が大きいと思う。相互関税の発表後にはそれらのリスクが警戒され、債券・株式・為替が同時に下げるトリプル安が起きた。米政権内でも経済への甚大な影響を危惧する声が上がり、各国とのディールを急ぐことになったと思われる。現在最も大きな問題は、やはり経済の先行きについて不確実性が高くなっていることだ。
――日本はどうすれば良いのか…。
井戸 日本はこれまで多額の対米投資を行っており、米国に雇用を創出し、米国経済に貢献してきた。今後もそのような経済協力を続けていくことを説明したうえで、なるべく早く日米両国にメリットがあるような合意ができれば良い。米国にとって最大の関心事項である中国との関税交渉の動向も見ていく必要がある。また、米国市場での売上高の比率が高い日本企業では、他の輸出地域を開拓しようという動きも見られてきた。米国への投資の是非は各企業が考えていくことだと思うが、輸出の安定性を考えるうえで米国以外の市場開拓も正しい選択だと思う。一方、各国が保護主義的な政策にかじを切るなか、日本の自由貿易体制を不安視する声もある。長い歴史のなかで世界的に保護主義が強まることは何度もあったが、長い目で見ても、日本にとってはオープンな体制を維持していくことが国益にかなうと思う。
――現状、各国との協議では為替の話は出てきていない…。
井戸 これまでのG7などでの議論を踏まえ、為替と貿易は別のフレームで議論するという認識はあるはずだ。また、ドル切り下げの「第二プラザ合意」については、実現の可能性は低いのではないか。プラザ合意の当時は、米国の貿易赤字は日本と西ドイツによってもたらされていたことから、ドル高・円安/マルク安の是正について合意がされた。しかし、今の日本の全体の貿易収支は赤字基調であり、またヨーロッパは共通通貨のユーロになっている。人民元をはじめ新興国のプレゼンスも高まっており、また米国の対中貿易赤字が大きいなど、プラザ合意の時代とは環境が大きく異なっている。
――強引な通商政策でドル基軸通貨体制が揺らぐ可能性も出ている…。
井戸 基軸通貨としてのドルの地位は低下している。しかし、今後、貿易取引や決済でユーロや円、人民元が台頭することはあっても、現状では当面ドルに変わる通貨は存在しないだろう。基軸通貨となるためにはいくつか条件がある。1つ目に経済規模が大きいということ。2つ目に国際市場で自由に取引できること。3つ目は、国際収支が赤字になるリスクがあっても十分な流動性が国際的に供給されていること。基軸通貨の流動性とその信認の維持は両立が難しいという「トリフィンのジレンマ」だ。4つ目は、為替相場・金融政策について透明性が高く安定していること。加えて、強固な安全保障体制があることも重要だ。これらの条件を満たすのは今のところドル以外にはない。ただ、トランプ・ショックで米国の先行きの不透明性が高くなっていることは、長期的にドルに対する信頼を損なうリスクがある。
――代替通貨として金や暗号通貨などの思惑もある…。
井戸 通貨制度が不安定になる時、資産として金の需要は高くなる。しかし、金には決済機能や利子配当がなく、通貨としての役割は期待できない。暗号資産も同様に、通貨として適切とは言い難い。もともと暗号資産は国際的な決済について迅速かつ低コストで、為替リスクがなく、各国当局の規制からも自由に取引できることがメリットだったが、実際には決済のためではなく投資目的のために購入されている。加えて、暗号資産は基本的に担保がなく、価格変動も激しい。ステーブルコインや中央銀行デジタル通貨(CBDC)については一定の役割が生まれてくると思うが、暗号資産についてはセキュリティーやマネーロンダリングの問題から各国当局が制度のあり方を検討している。今後、暗号資産の市場規模がどの程度拡大していくのか注視していく必要がある。
――アジアの金融協力が再び注目されてきている…。
井戸 ドルが揺らぐ今、ASEAN+3(日中韓)地域における金融協力の拡大について再考することは重要だ。域内の通貨バスケットや共通通貨単位などを近い将来に実現することは不可能だが、過去の議論を振り返る意義はあるのではないか。アジアにおける金融協力は、アジア通貨危機をきっかけに進展してきた。1997年に東京で開催された「タイ支援国会合」で、通貨危機に陥ったタイに対し、東アジア各国から予想を上回る資金が集まったことが域内における連帯の重要性を印象付けたのだ。私も同会合の開催に携わったことをはじめ、アジアの金融協力構想の実現を目指し努力した。当時は、日本を中心に「アジア通貨基金(AMF)」構想も提唱されていた。AMFはアジア通貨危機時にIMFの対応や資金が十分でなかったことから設置が議論されたが、実現には至らなかった。しかし、金融協力が進展するなかで、AMFで求められていた仕組みは実質的に形作られてきた。2000年には域内で危機に陥った国に他国が資金を融通する仕組み「チェンマイ・イニシアチブ(CMI)」が合意。また、域内経済のサーベイランスと分析を行うとともに、CMIの実施を支援する機関として2011年に「ASEAN+3 マクロ経済リサーチオフィス(AMRO)」が創設された。このほか、IMF自体も改革され、幅広い事態への対応が可能になった。
――当時は共通通貨単位の構想もあった…。
井戸 アジアの共通通貨単位についても議論されたが、実現しなかった。経済格差の大きさや地域システム・経済システムの違いのほか、域内に交換可能通貨が限られることから時期尚早という結論になったのだが、今でもそういう状況は変わっていないのではないか。もともと経済的に同質性が高かったヨーロッパ諸国も、共通通貨の構想から導入までに半世紀かかっている。アジアでの共通通貨導入が遠い将来のことだとしても、構想を通じて域内で各国の為替体制の安定を目指すことができるようになったことは事実であり、一つの目標に向かって議論を進めていくことが重要なのだと思う。日本は、経済規模は中国に劣るものの、高い国民所得があり自由主義経済体制であることから、やはり全体の議論のリード役として期待されている。ASEAN諸国の発展は日本の政府開発援助(ODA)が寄与したところも大きく、今でも日本とASEAN間の経済交流は活発であるため、連帯の下地はある。金融協力の議論が進めば、アジアは一つの経済圏としてさらに発展する可能性があると期待している。[B][L]