杏林大学 名誉教授 国際貿易投資研究所理事 馬田 啓一 氏
――米国のTPP(環太平洋パートナーシップ協定)復帰の可能性をどう見るか…。
馬田 もう少し時間が経過しなければ真意は分からないが、トランプ大統領は先日スイスで開催されたダボス会議の演説において、再交渉を条件にTPP復帰の可能性に言及した。「米国ファースト」に基づき二国間交渉を軸としつつも、米国の利益になるならば多国間交渉も除外しない考えを示した。しかし、その後行われた一般教書演説においては、貿易不均衡是正の重要性に言及したものの、TPPについては一切触れていない。TPP復帰についてどこまで本気なのかは半信半疑といったところだ。米国では、レーガン政権時代から多国間、地域間、二国間協定の締結という3通りのアプローチを上手に使い分ける通商政策が代々継続されてきた。トランプ政権になって二国間協定のみを追求するようになったが、ここにきて方向転換する可能性もでてきた。背景には、米国の二国間主義にもとづく通商政策がうまくいっていないことへのトランプ大統領の苛立ちがあるとみている。さらには、まとまらないと踏んでいた米国抜きのTPP11がまとまったことへの焦りもある。米国の産業界からの突き上げによって、今年秋に行われる米議会の中間選挙を意識して苦肉の対応をとらざるをえなかったのだろう。
――米国の通商政策の問題点は…。
馬田 トランプ政権は貿易不均衡の是正のために「力ずくの通商政策」を進めようとしている。それは多国間交渉よりも二国間交渉を重視する姿勢をみればわかる。相手の弱みに付け込んで何でも取引材料にして、強引に米国の言いなりにさせようとするエゴむき出しの通商政策をとるつもりだ。しかし、この1年、二国間主義をベースとした米国の通商政策は何も成果が出ていない。トランプ大統領が選挙中に公約として掲げていたTPP離脱は達成したものの、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉は膠着状態に陥り、米韓FTAの再交渉はまだ始まったばかりだ。米国の通商政策は行き詰まっている。問題はやはり露骨に米国ファーストを掲げている点にある。国益重視というのはどの国も考えているが、通商交渉では建前と本音がある。トランプ大統領の場合は、建前を捨てて本音だけで物事を進めようとするため、国際協調もうまくいかない。トランプ大統領はかつて「米国の不動産王」と言われたが、バイ(bilateral)の相対取引しか行わない不動産業界で培った交渉術は、マルチ(multilateral)の交渉が重要な通商政策には必ずしも通用しない。トランプ大統領がTPPのような多国間協定の枠組みの必要性を認識したのであれば、1年経って軌道修正するというのは、いいタイミングだ。オバマ前大統領も2年目に対中戦略を対話路線から強硬路線に軌道修正した。やり方次第で米国のTPP復帰の可能性もある。
――TPP11は3月8日にチリで署名することになった…。
馬田 カナダが文化保護を例外扱いとするよう強硬に求め、早期の署名に難色を示していたため、TPP11について3月上旬の署名は難しいとの見方が多かった。ウィルバー・ロス米商務長官も署名は無理だとの認識を再三表明し、日本のメディアもそうした論調となっていた。そうした中で、1月23日に東京で首席交渉官会合を開かれたが、担当の交渉官も当日までカナダがどっちに転ぶかは全くわからなかったらしい。日本はカナダが最後まで署名しないならば、TPP10でスタートする腹積もりであった。結局、日本の説得が功を奏して、この件については、最終的に協定自体を変更せず、米国が復帰するまでの例外として付属文書(サイドレター)に明記する方法が採用されたようだ。
――TPP11がまとまったことで米国が焦ったと…。
馬田 TPP11よりもNAFTAの再交渉を優先していたカナダは、TPP11の合意内容が固まると米国からTPP以上の要求を迫られるのではないかと恐れた。一方、日本は、TPP以上は1ミリたりとも米国に譲るつもりはないと強気の姿勢だ。カナダの乱心でTPP11の交渉はうまくいかないだろうと、米国は高をくくっていた。しかし、日本が中心となってTPP11の交渉をまとめ上げた。TPP11の交渉は頓挫するとトランプ大統領に断言していたロス商務長官はさぞかし焦ったことだろう。こうしたなか、ダボス会議でトランプ大統領は、再交渉を前提に米国にとってより良い協定となるのであればTPPへの復帰も検討すると表明した。この慎重な言い回しができたというのは、トランプ政権内部では以前からTPPの再交渉も視野に入れていたとも推測できる。ただ、想定外のTPP11がまとまってしまったので慌てた。産業界からはNAFTAもTPPもうまくいかないことへの批判が噴出し、それが中間選挙での敗北につながるとの危機感から、何とか取り繕わなければならないと焦り、追い込まれた先に条件付きTPP復帰という苦肉の策が出たのではないかと見ている。
――法人税減税などで企業の米国集中が想定されるが…。
馬田 企業は国際生産ネットワークを拡大させ、グローバルなサプライチェーン(供給網)の効率化を目指している。サプライチェーンの効率化が企業の競争力の決め手となるからだ。もはや米国内での一貫生産体制はナンセンスであり、米国の企業は賃金が安く環境規制も甘い国や地域を求めて世界中に進出している。グローバル化を進める企業が求めているのは規制緩和だが、環境保護のための規制のように必要なルールなら、国ごとにバラバラだと企業の対応が難しいので、せめてルールの一本化をしてもらいたいと考えている。トランプ政権は二国間FTAの締結を打ち出しているが、それはメガFTA時代の大きな流れに逆らうものであり、周回遅れの発想だ。二国間FTAごとにバラバラなルール、まさに「スパゲティ・ボウル」のような状況を求めているわけではない。企業のグローバルなサプライチェーンを分断させ、使い勝手の悪い二国間FTAを否定したのは他でもない米国の産業界だった。オバマ政権はメガFTAの構築を主導し、TPPやTTIP(環大西洋貿易投資パートナーシップ協定)の成立を目指していたが、トランプの出現で頓挫した。結局、米国中心の太平洋と大西洋を含めたグローバルなルール作りをすべてトランプ大統領が壊してしまった。
――対EUにおいても日本の通商政策は評価される…。
馬田 一年前は日本とEUのEPA(経済連携協定)交渉もまとまっていないだろうとの見方がされていたが、昨年12月に最終合意に達した。ブレグジット(英国のEU離脱)が日EUEPAの交渉にプラスに働いた。EUは英国との離脱交渉に専念するために、並行して進められていた日EUEPAを先に終わらせたいと考えたからだ。さらに、トランプショックも追い風となった。トランプ政権がG20財務相・中銀総裁会議で「保護貿易への対抗」という文言削除を求めるなど保護主義的な動きを強めたことで、EUはトランプ政権を牽制する狙いから日EUEPAの締結を急がせたといえる。ただ、日EUEPAの大枠合意後も、投資紛争ルールの問題について日EUの溝が埋まらなかった。そのため、日本とEUはこれを棚上げすることで最終合意が実現した。
――トランプ大統領の今後の対応は…。
馬田 TPPに復帰したいと思っても、これまで「TPPはひどい協定だ」、「TPPから永久離脱だ」と言ってきた手前、トランプ大統領としては、「米国にとって良い協定になった」という恰好をとらずにTPPに復帰すれば、トランプ支持者から裏切り者にされる。このため辻褄を合わせるために、再交渉を条件としてTPP復帰の検討を表明した。ただ、すでに内容が固まってしまったTPP11について、日本は再交渉するつもりはない。その一方で、何とか米国をTPPに復帰させたいと考えている。3月8日にチリで11カ国が署名し、その後6カ国で批准されれば60日以内に発効する。発効されたTPPに参加したい場合、各国の承認が必要となる。その結果、日本がTPP交渉への参加のために米国との事前協議で苦い思いをしたように、今度は米国の立場が弱くなり、力関係が逆転する。この点については米国もわかっており、だから焦ったのだ。日本は強気になって米国に対し泰然として動かず、米国が頭をさげてTPPに参加したいと言ってくるのを待っていればよいと言っても、トランプ政権は頭を下げてまでTPPへの復帰を選ばないだろう。TPPの代りに強引に日米FTAの締結を日本に迫ってくるにちがいない。そのため、再交渉の余地はないと言いつつも、最後は窮地に追い込まれたトランプ大統領に対して安倍首相から助け船を出すべきだ。トランプ大統領にとって「渡りに船」となるようなお膳立てをすることが出来れば、日本の外交は一皮も二皮もむけたことになる。
――日本政府は米国とどう交渉していくか…。
馬田 日本の通商戦略は目下、トランプ政権の暴走をいかに食い止めることができるかが最大の課題である。TPP11や日EUEPA、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)の発効によって、アジア太平洋から締め出されるのではないかと米国を焦らせる一方、日米経済対話を利用してTPPに復帰するよう米国を説得するというのが、日本の通商シナリオである。日本が米国の尻に火をつけることができれば、米国のTPP復帰の可能性が高まる。日米経済協議はこれからが本番だ。今年、米国側は中間選挙を控えて目に見える成果を求めてくるだろう。貿易不均衡の是正を理由に市場開放を迫ってくることは間違いない。牛肉を含む農産物や自動車、薬価制度が短期決戦の標的になりそうだ。しかし、中間選挙が終わってからTPPと日米FTAでぶつかり合うことが想定される。今回のトランプ発言を受けて、日本は日米経済対話の場で米国のTPP復帰を取り上げ易くなった。TPPと日米FTAをめぐり日米の思惑が異なる中で、日本としては日米FTAの問題をすり替えるための口実を掴んだと言える。米国のTPP復帰の可能性については、トランプにとって「渡りに船」となるような落としどころを考えて、「裏技」といえる妙案を打ち出せるかが成否のカギとなる。ガラス細工を壊さないように整形手術は避けて、衣替え(名称変更)と厚化粧(サイドレターなど)を行った新装TPPの成立が落としどころとなるだろう。