名古屋大学
大学院法学研究科 教授
稲葉一将 氏

――政府はマイナンバーカードの普及を推進しているが、取得することを躊躇ったり、拒否する人も多い…。
稲葉 そもそもマイナンバーカード(以下、マイナカード)に法的な義務はなく、取得するかしないかは個人の判断によるものだ。マイナカードの申請をしなければ処罰がある訳でもなく、返納するのも自由だ。つまり、欲しい人が申請すればよいだけなので、何かを不安に感じている人は無理して保有する必要はない。マイナカードの取得が義務化されていない事が国民に周知されていないのであれば、それは政府の説明が足りないという事だ。また、銀行口座を作る際の本人確認にもマイナカードの提示を求められる事があるが、それも「従来の方法に加えてマイナカードも利用できる」という程度のものであり、提示を義務化させようとするのであれば、「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(略称:マイナンバー法)」など、法律の中身を根本的に変えなくてはならない。それにもかかわらず、マイナカードを保有しない事で国民が何かしらの不便を感じるような仕組みになっているのであれば、それは行政の方向性が法律から離れているからだ。
――マイナカードの取得が法的な義務ではないのに、保有しなければ不便な世の中になっていく…。
稲葉 マイナカードを取得しないことで今一番問題になっているのは健康保険証だろう。従来の保険証はまだ暫く使用可能だが、新規の発行は今年12月2日に終了予定となっている。そして現行の健康保険証がなくなった後には「資格確認書」という保険証に代わる仕組みがつくられる予定になっているが、マイナカードによる健康保険証の利用登録をしていない人たちが、今年12月から来年1月頃に利用登録をするようになって人数が増えると、また色々な問題が噴出してくるのではないか。このように、無理にマイナカードの取得を進めて、その流れでいずれ義務化させようとするのは、主権者のための政府という本来の民主主義国家の在り方から外れている。
――大事なことは、国民一人一人が本当にマイナカードを保有した方が良いと考えているのかどうかだ…。
稲葉 マイナカードを保有することで個人情報が流出するかもしれないといった不安を抱える人は多い。そういった意思を無視して政府主導で勝手にマイナカードの取得が進められているというところに、多くの人たちは疑問を持ち、不満を感じているのではないか。そもそも一枚のカードに色々な機能をまとめるという政策は世界でも珍しい。医療保険や運転免許証など色々な情報を詰め込む中においては、個人的に触れられたくない分野もあろう。そういった部分をどのように扱っていくのかといったルール作りについても、しっかり議論していく必要がある。その議論が無ければ後から困ったことになりかねない。
――そもそも、日本における政府のセキュリティ対策の信用性は相当薄い。例えば、マイナカードで個人情報が流出した際の法的手当てがきちんと出来ているのか…。
稲葉 当然、悪事を働いた人を見つけて罰するという法的な仕組みはあるが、そういった犯罪に類する行為はいたちごっこだ。法的手当て以前に、必ずどこかでそういった事を行う人が出てくるという前提で考えなければならない事が沢山ある。例えば、マイナカード一枚で何でも出来てしまうという「利便性」は、この悪用と裏表ではないか。このような社会を国民は本当に望んでいるのだろうか。むしろ、身近な窓口で顔見知りの職員と本人確認をしながら手続きを進めていくプロセスを望んでいる人もいるのではないか。従来の文化を守りながら日本の社会を作っていくべきだと思う。特に今の世の中は、普通の若者が自分の知らない所で犯罪の手先として悪事に加担してしまうような事も多い時代だ。全ての情報が詰まったマイナカードの保有を義務化させることが、良からぬ心をもった人達を増加させるきっかけとなり、結果的に社会が分断されるような状況になってはならない。先ずは、その状況を生み出さないような議論を重ね、その次に、違反した場合の罰則や補償手当が考えられるべきだ。
――マイナカードの普及は、地方の行政や自治体にどのように影響していくのか…。
稲葉 マイナカードは一つのカードで多数の機能を保有している為、色々な手続きの窓口が一つで済むようになる。手続きがオンライン上で行われるようになれば、役所の規模も小さくて済み、それはいずれ、役所の統廃合にもつながるだろう。ただ、繰り返しになるが、現段階でマイナカードの取得は義務ではなく本人の意思に任されている為、自治体も、先ずは住民がどのような意思表示をしているのかという事に注目する必要がある。異論もあるかもしれないが、国民の多くがマイナカードを取得した理由はマイナポイントをもらえたからであり、そこに健康保健証の機能を紐づけている人の割合は、今春ようやく50%を超えた程度だ。つまり、ポイントの為にマイナカードを取得しても、そこに色々な機能を組み込む事に対しては、多くの国民が慎重に考えている。国民の中から出てきたこのような動きが、今、進めようとしている流れとは違うものであったとして、政府はそういった声にきちんと耳を傾け、国民が本当に望む方向性をしっかりと読み取り、民主的な社会にしていかなければならない。それが重要な事だと思う。
――日本の行政の進め方として、もっと議論を大事にすべきだと…。
稲葉 日本には審議会や委員会など専門家を招いて行う会議の場は在り過ぎというほど存在する。ただ、行政の中でどれだけ多くの会議を開こうとも、そこに存在する少数の見解に耳を傾けなければ意味がない。今の日本には異論を大事にするような体制が必要だ。そうしなければ、他の意見を聞くことなく、一つの答えだけに向かって突き進んでしまうからだ。実際にマイナカードの問題にしても、今はハッカーや詐欺が出てきた時の事は議論せずに、先ずは普及させる事だけを目標にまっしぐらに進んでいる。被害が出てきたら、その時に対処法を考えればよいという考えだ。国がそのようにマイナカードの普及を進めている一方で、自治体の対応は様々だ。中央政府の意向に沿って動く自治体もあれば、冷静に距離を置こうとする自治体もある。自治体の議会にも、マイナカードを健康保険証の代わりとするべきではないという趣旨での議決の動きがあり、約1割にあたる180程度にまで議会の数が増えていると聞く。反対の理由は、例えば高齢者施設においてマイナカードの管理は難しいという現場からの声があがっている等、地方によって様々だ。住民の声に応じて議決を行った地方議会のように、自治体の動きを国はきちんと把握して、しっかりと政策に反映していく事が重要だ。そうしなければ、国民のマイナカード普及に対する反発や政治に対する不信感は、ますます強くなっていくだろう。[B][HE]