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「信託は信頼社会を創る三角形」

三菱UFJ信託銀行
信託博物館館長
永田俊一 氏

――信託博物館の意義とは…。

 永田 当館は2015年、若林辰雄三菱UFJ信託銀行社長(当時、現顧問)の時に、三菱UFJ信託銀行(以下MUTB)の設立10周年を記念して日本工業倶楽部会館1階に開業した。「信託」の歴史や事物の紹介でその理念を伝えることが目的だ。展示は3つのセクションに分かれている。メインは、信託の起源と発展・成長について歴史を概観するパネルや資料の展示だ。順に、古代エジプト、ローマなど紀元前から世界各地に存在していた信託と似た仕組み、英国での現代の信託に直接通じる信託の誕生・確立、米国での商事信託の発展、明治後期以降の日本での信託のあり様を解説している。このほか、信託に関する映像上映のコーナーや、作者ポターのナショナルトラストへの貢献からMUTBイメージキャラクターに選ばれているピーターラビットに関するコーナーなどを設けている。解説の正確さも重要だが、テキストを全部じっくり読む時間のある人は少ない。来館者に関心を持っていただき、理解してもらうために、ビジュアル、展示物のバラエティにも気を配っている。「博物館」とはいうものの、一般の博物館のように価値の高い所蔵品や目を引くものを用意することはなかなか難しく、見て読んでもらうものが中心だが、信託をテーマにした博物館としてはおそらく世界で唯一だと自負している。

――館長になったいきさつは…。

 永田 2018年に引き継ぐまでは、若林さんがMUTB社長・会長と当館の館長を兼務していた。私がある銀行にいる時、若林さんから「やってくれないか」とお話があった。「信託好き人間」なのですぐ引き受けると決めた。信託に興味を持ったきっかけは二つある。一つは、1995年に投資信託法の改正に携わったことだ。知らないわけではなかったが、そこで議論するうちに「なるほど、信託はなかなかいい制度だ」と実感した。もう一つは、退官後、信託協会の副会長や専務理事に就いた経験だ。信託協会は業界団体だが、信託の精神・観念を普及させるミッションを負っている。PRのため当時のことなので本にすることを選び、自分で反すうしながら理解してもらえるように『信託のすすめ』(1999年4月第一版、文芸春秋社)を書いた。面白く読んでもらわないといけないので、簡単な話題や歴史を使ってストーリー仕立てで語るように心がけた。信託の仕組みを「信頼の三角形」で表現したのも私がやった。ある時、若林さんが信託協会会長に就任しあいさつに来られて、私の書いた本を取り出し話していかれた。その後信託博物館を作ったと知らされ伺うと、「良いところに目を付けてくれた」と拙著の説明の流れと親和性を感じた。その延長線上で館長となり今に至っている。

――信託の仕組みの三角形とは…。

 永田 信託は受託者(財産を託される人)・委託者(財産を託す人)・受益者(託された財産から利益を受ける人)の「信頼の三角形」で説明できる。専門性のある受託者が、委託者と受益者のために一つの事業を行うという構図だ。委託者は目的を持って託すうえで自律した人でないといけないし、受託者も誠実に委託者の目的に応えないといけないので、三者の間には「信頼の三角形」が生まれる。この点、信託博物館の館内では英国の「ユース」(中世英国にあった信託の原型の仕組み)、「トラスト」(信託)の歴史を説明しているが、議会制民主主義が英国で生まれた理由の一つはユース・トラストが根付いていたためだという。信託を通じて財産の分散が進み、専制に対抗する力が広がり強まり参政権が拡大した。議会制民主主義は、委託者である国民が代表者である議員を選び、信頼して権力の行使を託すもので、仕組みとしても信託に通じるものがある。信託とは、一般に「金融」だと思われていると思うが、本質は何か事業を行う時の選択肢の一つだ。信託でものを考える社会は、「信頼の三角形」が広がる、民主的で「衡平な」社会だと思う。

――日本ではどのように信託が発展してきたのか…。

 永田 歴史的に、9世紀空海が家屋敷や田畑の提供を受け、庶民への大学教育を託された綜芸種智院をはじめ、日本でも信託の萌芽や信託に通じる例が多く指摘されている。ただ、近代日本の信託は米国から「輸入」されたものだ。概念の学問的理解は明治時代初期にはあったが、信託会社が登場するのは明治後半だ。実態としてヤミ金のような会社から本物まで玉石混交の状態を整除するために信託法・信託業法の制定努力が続き、1922年には同法が成立、関東大震災発生の年である翌年に施行された。預金と競合し高い実績配当の出せる金銭信託から始まり、その後商品の多様化も進んだが、太平洋戦争の戦時体制下で経済金融全体が沈滞するなか勢いを失う。戦後は、終戦直後の金融制度を再設計する時期は苦労するが、高度成長期にかけて貸付信託法ができた。運用は旺盛な企業の資金需要に応えるので利回りも高く、元本保証が付き、人々が受け入れやすい形の貸付信託は大いに伸び、その後の年金商品などの発展につながった。そして、近年の信託の多様化に大きく寄与したのは、2006年の信託法改正だ。私はこの改正によって信託が「先祖返り」したとよく言っている。1922年制定の信託法・信託業法は規制的な色彩が強いものだった。信託可能財産も不動産など数種類に限定されていた。もちろん2006年の改正までにも、信託法と別に特別法を作ってしのぐようなことが繰り返されていたが、金融の自由化・国際化が進むなかで、もはや時代にあったものではないということが表面化した。業界同士の垣根の問題も「そんなことを言っていられない」という話になってきた。2006年の改正で、本来の信託の理念に沿った、何でも信託にできる、誰でも信託をやれるという状況に「先祖返り」できた。

――2006年を境にいろいろな信託が生まれている…。

 永田 信託法の改正から20年近く経ち、徐々に日本の信託が多様化してきた。信託銀行・信託会社は、「信託メインでやっていかないといけない」と目標が明確になるといろいろなことを考えるものだ。最初はそれまでの慣性もあって「頭は動くが手が動かない」ように見えたが、今は信託業務が多様化していることを実感している。信託はどういう商品を作るかが自由に設計可能だ。信託の法律にあるようにさまざまな金融商品・サービスをまとめたりばらしたりできるので、複合商品や不良債権の処理などにも適し、負の財産も入れられるため会社で事業を行うのと同じようなことができる。同時に、受託者の責任・義務が非常に重く、利用者保護がしっかりしている。安全安心の信頼の器だ。繰り返しになるが、信託の本質は、お金のやりとりだけではなく、よろず「信じて託す」ことだ。「信じて託す」という観念が人々に広まるのは大事なことだ。信託の観念が広まり、一人一人が社会を信じて託し託される心構えを持てば、いまと少し違う社会になると思う。そういう意味で、これからは信託の時代が来てほしいし、来るだろう。

――信託が社会を変える…。

 永田 信託という観念は世界平和に通じるのではないかと思う。国際連盟が国際連合になった時に、それまでの委任統治に代わって信託統治制度が作られている。前者は統治国の勝手になりやすいのに対し、後者は信託だから、その地域が自治を行うまで「信じて託す」というスタンス、目的や、受託者の財産ではなく独立財産だということが明確だ。信託統治領は米国が統治していたパラオが1994年に独立して実在しなくなり、信託統治理事会も活動を停止したが、組織としては存続している。例えば紛争地や係争地を例えば国連機関が信託を受け信託統治し、国連の監督の下、どう土地を分けるか、どう周辺の仕組みを作るかなど議論を進め、平和裡に事態を収束させることは可能だ。信頼し合う社会の形成と世界平和を実現するために、信託の観念をもっと広め、活用していきたいものだ。[B][L]

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