日本カウンターインテリジェンス協会
代表理事
稲村 悠 氏
――中国の覇権主義の拡大や、ロシア対ウクライナ戦争での諜報活動を見ていると、日本の安全保障戦略は喫緊の最重要課題だ…。
稲村 私は警視庁公安部外事課で諸外国のスパイ事件を捜査した経験からスパイ事案への対処を専門としており、民間企業においても情報漏洩事案等の不正調査を担当する経験を有し、官民でスパイ事案を多く取り扱ってきた。その中で、一見、普通の情報漏洩事案に見えても、実は背後に中国共産党が関わっている事案が散見された。例えば、防衛省にある装備を卸している企業に勤めていた元社員が、当該装備の技術情報を持ち出したという事があった。その技術情報は最新のものではなかったものの、現在日本で使われている技術であり、決して流出させてはならないものだ。技術情報を持ち出した元社員は中国の国営メディア関係者と深くつながっていたが、間接的に人民解放軍の影響下にあることも判明した。こういった事案は企業の不祥事に当たるため、企業側から積極的に公にされることはほぼ無く、なかなか表出しない。また別の例では、あるファンドから「特定業種(製造業)の買収を積極的に進める社員がいるため、身辺調査をしてほしい」という依頼を受け、調べていくうちに、その社員は中国共産党の有力者と繋がっていることが判明し、同人の指示のもと、ファンド社員が企業を買収していたという訳だ。その企業を買収した後にそのファンドの人間が役員として送り込まれれば、技術情報にアクセスされる危険が高まる。これらの事案は「合法的な技術流出」となり、捜査機関としても取り締まることは出来ない。こういった手段が民間企業で多く見られるようになっている。
――日本政府は外為法を改正し、日本の安全保障上重要な企業への出資規制を強化したり、企業から従業員への機微技術の提供の一部を管理対象にしているが…。
稲村 「みなし輸出(非居住者に対する技術提供)」の管理に関して言えば、入り口段階でのスクリーニングだけで、その後の定常的観測=監視はそのノウハウとリソースがなければ難しい。また、最初は潔白な身分で入社ないしは入所した人物に、後に中国人民解放軍や国営企業の人物等が接触し、その指揮下に入るというケースも多々見られる。その根底には中国人の法的な義務として共産党から情報提供を求められれば断れないという国家情報法がある。情報流出を本当に防ぎたいのであれば、対象人物の受け入れ時のスクリーニングと定常的な監視が必要だが、それは権利の問題から徹底できないのが現状だ。この点、宇宙航空研究開発機構(JAXA)では、先端技術の保護や重要物資の供給網確保といった政府の経済安全保障強化を踏まえ、軍事転用可能な技術情報などの流出を防止するため、「宇宙科学研究所」の外国人研究者や学生の受け入れ方針において、中国は一部の特例を除いて排除するほか、ロシアや北朝鮮については例外なく不可と位置づけ、既に運用を始めている。中国の国家情報法や過去の技術窃取状況を見ても、私は正しい策だと思う。また、現在の日中関係、国際情勢を見れば当然の自衛でもある。在日中国人や在日留学生の殆どは善良な中国人だが、一声かけられれば従わざるを得ない状況にあるのは事実だ。
――日本の国家安全を考えると、中国人労働者や中国人留学生に対して、重要技術や機密情報を扱う企業で働かせたり学ばせたりするのは問題がある…。
稲村 日本の国家安全を考えると、国内での研究開発においては中国と分離させておいた方が安全だろう。また、問題は中国で開発や共同研究を行う場合だ。実際に中国側と共同研究を行っている日本のグローバル企業などは多数あるが、そういった会社の一部には危機意識が低く、情報セキュリティもグローバル基準で横断的に管理しているなど、中国特有のリスク事象を想定できていないケースがある。一方で、日本の防衛産業を担う企業では、経営陣の意識が高く、機微技術を扱う事業に関しては他の事業と分離させて人事交流も一切せず、しっかり守りを固める策をとっている。そういった違いは企業のリスク感度によるものだろう。もちろん、国籍だけで判断して排除することは難しいが、警察白書や防衛白書に記載されている対象国は、アジアでは中国、ロシア、北朝鮮の3国であり、この3国と機微技術を扱う場合は、これまでの話を前提にリスク感度を高めて対応を検討しなければならない。
――防衛の観点から、日本の法律が遅れていると感じるところは…。
稲村 「スパイ防止法を日本で作るべき」という論調があり、それは必須だと思う。今、スパイ行為があった時に捜査機関としては、スパイ防止法のようなスパイ活動を取り締まる法的根拠がないため、法定刑がさほど重くない窃盗や不正競争防止法などの適用を駆使しながら、何とか対応している状況だ。また、スパイ事件の特性上、任意捜査をしていれば察知されて帰国されてしまう可能性が高くなるため、よりハードルの高い強制捜査を目指さなければならないといった実情もある。一方で、経済安全保障という面から見て合法的な技術流出の経路も多く、不正競争防止法や外為法に加えて新たにスパイ防止法を整備しただけでは、合法的技術流出は防ぐことが出来ない。そうであれば、例えば先端技術を扱う企業や研究所にスパイ活動を含む技術流出に関する教育指針を示したり、経済安全保障上のリスクを明示した上で技術流出への対策基準を示すような、包括的に対応できる法律(カウンターインテリジェンスの概念)を作るべきではないか。この点、現在、高市大臣が取り組んでいるセキュリティ・クリアランスは、アクセス権のコントロールという観点から、スパイを機微な情報に触れさせない様にするという取り組みであるとともに、ファイブアイズ(機密情報共有5カ国)と同盟関係を結ぶ上で求められている制度だ。同盟国同士が信頼して情報を共有できる体制にするために、また、国の機密情報を民間の特定人物と共有することで先端技術開発やサイバーセキュリティ能力を向上させるといった、経済安全保障の面で日本を支える制度となる。
――日本のセキュリティ・クリアランスはなかなか進まない。その理由は…。
稲村 日本人は個人の権利に対してアレルギーを誘発しやすい。また、左派勢力がそのアレルギーを利用して活動を拡大するという構図もある。沖縄の辺野古問題でも、本当に困っている方々に乗じて行き過ぎた活動をする集団・組織がいるのは事実であり、プラカードを掲げて抗議活動を行っている中で、そのプラカードの一部には中国の字体が使われる等、中国の影響力工作が浸透しているという事実もある。ただ、その線引きは難しい。セキュリティ・クリアランスの法制化にあたっては、それが制度化されれば同盟が一歩進むのは明確だ。一方で、企業としては機微技術を扱う人材を採用する際に、個人の思想まで調べる必要が出てくるのか、ということも問題になってくる。そういった企業の難題を解決する策として、私のように特定秘密取扱者として国から認定されている人物を入れ、情報伝達の部署に配置させるやり方もあるのではないか。
――現在の日本企業の経済安保対策への意識は…。
稲村 日本の大企業に関してはそれなりに感度が高まっていると思うが、横並びではなく、意識の高い企業もあれば、あまり気にしていない企業もある。そこにリソースを割くべきかという問題もあり、先陣を切って進める事は難しいようだ。一方で、中小企業に関しては、予算もリソースも割けないというのが実状だ。優秀な技術を持つ中小企業が中国やロシアのスパイのターゲットになっており、特にニッチトップと言われているような会社は気を付ける必要がある。経産省は技術情報認証管理制度を作り、技術情報流出を防ぐためのチェックリストをクリアした企業に認証を与えているが、そのチェックリストには人の観点からのリスクの言及があまりない。例えば、社員の中に中国政府や中国関係機関の影響下にある人物がいる、といったような項目だ。重要技術を取り扱う企業に対しては、そういった観点からのチェックも行わなければ管理制度も意味のないものになってしまう。
――実際に行われているスパイの具体的な手口とは…。
稲村 例えば、あるスパイが重要機密情報を持つ企業の社員に道を聞き、それをきっかけに会食する関係にまで発展し、その後、頻繁に会って意見交換を行うようになるというものだ。誰かがそういった事態に気づいて注意をすれば大事になるのは避けられるのだが、それが機密技術情報の流出につながるケースは多い。工作員はターゲットとする人物の通勤経路や家を丹念に調べ、さらに生い立ち、趣味や家庭事情なども調べたうえで、偶然を装い、道を教えてほしいと声をかける。そして、帰宅時などを狙い、しばらく同じ方向に一緒に歩いて世間話が出来るように仕組んでおく。そうして話を合わせながら会食までもっていくという手筈だ。こういった典型的なやり方に騙される日本人は実際に多い。なぜなら、スパイはターゲットとなる人物について調べ尽くしているからだ。スパイはプロ中のプロだ。
――国や地方公共団体など、行政事務を取り扱う組織の経済安全保障対策の意識は…。
稲村 スパイが先端技術を有する企業の社員や各分野の識者をもつ人物に接触したという話はよく聞くが、政治家もそのターゲットにされやすい。実際に、中国人女性にハニートラップを仕掛けられた国会議員がいることは記憶に新しい。こういった例は、影響力工作の一環として多くみられるところで、難しいのは、それが違法行為ではないという事だ。そして、あまり声高に指摘すると中国を嫌悪する右派とみなされてしまうため、思想の左右の議論に帰結してしまい、カウンターインテリジェンスといった本質の深い議論に至ることが少ない。しかし実際には、魅力的な役職や資金の提供、女性絡みで弱みを握って脅しをかけるといった方法で、機微情報は常に狙われている。今後、これまでの技術情報管理の概念から一歩踏み込み、経済安全保障の観点で情報セキュリティ・技術情報管理のあり方を再考しなければならない。そこには、これまで絵空事のように思われていた「中国によるスパイ」や「国家による合法的手段による技術窃取の手法」もリスクシナリオとして捉えられなければならない。[B]