金融ファクシミリ新聞社金融ファクシミリ新聞

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「日本株式市場を日本人の手に」

本紙顧問
日興リサーチセンター前代表取締役社長
末永 雅春 氏

――経済安保の要素が重視される時代にあって、現状の資本市場の原点をどう見るか…。

 末永 私が証券会社に入った1985年4月の日経平均株価は1万2000円程度、丁度プラザ合意の年だったこともあり、その年の10月には公定歩合は2.5%になった。外国からの圧力によって円高誘導を合意したもので、結果、公定歩合の水準は長く低位安定が維持された。それは未曽有のバブル経済を誘発し、僅か4年後には日経平均株価は4万円近くまで跳ね上がり、不動産価格はさらにその1~2年後まで上がり続けた。今からしてみれば、そこが日本経済の絶頂期で、ロックフェラービルを三菱地所が買収したことはその象徴的な出来事だった。1989年12月に超タカ派として知られていた三重野氏が新日銀総裁となったことでようやく金融引き締め政策を意識し始めたが、その頃の市場関係者は、少しくらい株価が下落しても再び盛り返すだろうという感覚で、日本の経済の実力を過信していた。しかし、1990年4月に不動産融資の総量規制が施行され、株式市場の息の根は止まった。当時、不動産価格はまだ上がっているにもかかわらず、株価の下落は4月から加速して止まらない。株式市場の先見性は総量規制がいかにバブル経済にとって致命傷かを見せつけた。結局、1万6000円に下落した1992年に、不動産価格はようやく高値を付けて下がり始めた。そして、そこからスタートした銀行の資産が急速に不良債権化していき、1998年には長銀、拓銀、山一証券が次々とデフォルトしていった。この日本経済が弱り切っていた時代に、「新自由主義者」と呼ばれる人たちが、株式手数料の自由化や海外保険事業の参入等、改革と称して日本の金融市場の自由化を進めていった。

――バブルから一転、80年代とは真逆になった90年代に起きた金融・資本市場の変化は…。

 末永 一番の変化は、外国人投資家が購入しなければ日本の株が上がらなくなったという事ことだ。外国人主導の株式市場になったことで、次第に国有財産の放出の際にも外資が絡みグローバルオファリングが始まるようになった。小泉内閣の目玉であった郵政民営化に象徴されるように、政府保有株の放出ではグローバルオファリングが主流となって行った。今や、大型株の増資や売り出しの成否は、外国人がその株を買うかどうかが鍵となる。必然的に主幹事も外国人投資家に太いパイプを持つ外資系証券が座り、日本の証券会社は2番手3番手として、国内個人投資家向け販売担当になってしまった。この暗黒の90年代に始まったことは今でも連綿と続いている。

――日本の投資信託会社の資金運用にも問題があった…。

 末永 80年代までは日本株を普通に買って運用していれば右肩上がりになっていたはずだ。しかし、当時の証券会社は、株式部主導で自己部門が仕入れた株を個人に販売すると言うやり方が主流だった。運用会社は全て証券会社の子会社だったため、親会社の言いなりだ。株式営業で売れ残った株を運用会社が引き取らされることなど、日常茶飯事で、これでは、投信の基準価額が上がるはずがない。一方、外国人投資家は、戦後復興の象徴だったソニーやパナソニックなどの株式を長期保有していた。投資家は基本的に過去の実績や履歴を見て投資する。トラックレコードの良い外資系運用会社に日本株の運用を任せるのは当然の帰結だ。日本株の運用なのに、日本の運用会社ではなく、外国の運用会社の方が信用される。そんな株式市場は、世界で日本くらいのものであろう。これが、日本の資本市場にとって致命傷となった。今や、株主総会が終わると、日本の事業会社のCEOやCFOは海外の投資家をIRで行脚する。日本経済が好調な時に、日本の金融界や経済界、そして日本社会全体が資本市場のことをしっかりと考えて形にしてこなかったツケが回ってきているわけだ。2000年に高い志を持って始まったノムラ日本株戦略ファンドも、販売開始当初の運用総額は1兆円超だったが今では残高500億円くらいになっており、日本の運用会社の復権どころが、更なる没落を招いてしまった。

――外国人主導の株式市場が今でも続いている。これでは経済安保の観点で大変危うい…。

 末永 恐らく、今の日本の運用会社にウォーレンバフェットは現れない。とてつもない個性を野放しにし、それを活かす権限を与えるような風土がないからだ。ただ、今更過去のトラックレコードは上書きできないが、これから作るトラックレコードは作り出せる。優れた日本株運用が、日本の運用会社によってなされ、それが評価として定着すれば、「日本のファンドに買ってもらわなければ株価が上がらない」となる。この点、世界最大の運用残高を持つGPIFは重要だ。あれだけの規模になると、基本、ベンチマーク運用にならざるを得ないが、最近は外国株の比率を少し上げ、海外株のパフォーマンスも取り込んでいる。約150兆円という運用総額の1%でもいいから徹底的に冒険的な運用に割り当て、伝説のマネージャーを育てる器を与えてはいかがであろう。「GPIFの伝説のマネージャーが買う株は上がる」というトラックレコードを作っていく事が大事だ。そうした工夫を重ねれば、外国に支配されたマーケットを日本人の手に戻すことが出来るかもしれない。

――他に「日本市場は日本人が支配する」という仕組みは考えられないか…。

 末永 もう一つ、外国人主導の日本市場を取り戻す方法として「外国人投資家の要求を安易に飲まない」という方法もあるだろう。外国人投資家の言う事を聞かなければ株価が上がらず、株価が上がらなければ経営責任を取らなければならないと言う常識を断ってみてはどうであろう。勿論、そんなことをすれば、一斉に外国人投資家の売りを浴び、株価は暴落するかもしれない。しかし、外国人投資家の価値観とはおよそ相容れない経営で成功している会社もある。信越化学の前社長であった故金川千尋氏は、ROE等の数字や株主の意見などどこ吹く風と言った人物だった。海外グローバル展開の考え方も独特で、人件費が安い中国や新興国ではなく、政情が安定している地域に人を必要としない最新設備の工場を作ればよいという考えだった。結果、在米子会社のシンテックは、塩ビと言うコモディティ化されたプロダクトで、世界最強の競争力を誇っている。これは日本型製造業の一つのモデルだ。今や、日本を代表するソニーという会社でさえ、株式の50%以上を外国人投資家が保有している時代だ。外国人投資家が喜ぶと言う事は、日本企業の成長の果実を外国人に持って行かれることを意味する。それなのに、外国人投資家が増えることを日本の経営者が喜んでいる。これは奇妙な光景だと言う事に我々は気が付かなければならない。

――会社が大きくなっても、日本のGDPには反映されていない…。

 末永 日本企業の経常利益は1990年比4倍になっていて、少なくとも企業ベースで言えば失われた30年はない。問題は日本企業の成長の果実が日本のGDPに貢献していないという構造に欠陥がある。この構造問題がどこから発生してるかを探ると、90年代に行われた金融の自由化が発端だと私は思う。加えて、それ以前の前近代的な経営をしてきた証券業界のツケが重なり、失われた30年が出来たとも言える。コーポレートガバナンス然り、ROE議論然り、金融自由化によってもたらされた株主資本主義の価値観が、それ以前の日本型経済モデルを徹底的に破壊した。足元のSDGsひとつをとっても、例えば日本企業が二酸化炭素排出量を相殺するために購入しているカーボンクレジットが欧米ものであれば、それは欧米の温暖化ガス削減に投資される。何故、名だたる日本企業が日本のJ-クレジットを買わないのか。そういったところもきちんと考えていく必要がある。日本の資本市場を日本経済のために活用するにはどうしたらよいか。しっかりと時間をかけて世界の投資家が信頼する日本株の日本の運用会社を育て、日本企業の外国人投資家から日本人に取り戻す様々な工夫と努力をしていかなければならない。[B]

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