金融ファクシミリ新聞社金融ファクシミリ新聞

金融ファクシミリ新聞は、金融・資本市場に携わるプロ向けの専門紙。 財務省・日銀情報から定評のあるファイナンス情報、IPO・PO・M&A情報、債券流通市場、投信、エクイティ、デリバティブ等の金融・資本市場に欠かせない情報を独自取材によりお届けします。

「日本の株主平等原則は反安保」

早稲田大学
名誉教授
上村 達男 氏

――日本では企業経営にファンドが強い影響を及ぼしている…。

 上村 欧州で言われる「株式会社は株主のもの」というのは、株主が個人や市民であることが前提だ。個人とは、労働者であり消費者であり地域住民であり、すべて血の通った存在だ。株主の属性を問わないで「株式会社は株主のもの」「株主はみな平等」というのは大きな問題だ。コンピューターによる高速売買やヘッジファンドのような、人間の匂いがほぼしないものに人間世界を左右する議決権を与えてはいけない。また、匿名の投資家の議決権行使を認めるべきではないのもカネによる人間支配を認めないためだ。その株主が中国やロシア、北朝鮮といった国家かもしれないし、マネーロンダリングを行っている企業や反社会勢力かもしれない。経営に影響を及ぼすほど議決権を持つ投資家の属性は明らかにすべきだ。

――各国で株主の概念が異なると…。

 上村 例えば欧州では「株主」は人間の集合という概念を持ち、イギリスでは「company」、フランスでは「associe(英:associate)」となる。株主というのは本来、米国での「shareholder」という株を持っているだけの存在ではなく、社員つまり仲間かどうか、共同体の一員かどうかといった概念が重要だ。とりわけ、議決権という人間社会の意思決定のあり方に特に焦点が当たる。配当はshareholderだけでも出資がある以上は原則付与されるが(必ずではない)議決権はassocieに付与される。日本でも、明治時代中期に法典編纂が行われ英仏独の法律を学んでいたころは株主が個人や市民であることを前提とし、株主のことを人間の集まりである社団法人の構成員を意味する「社員」と呼んでいた。社員は「membership」であり、人間の集まりを表現している。ファンドやコンピューターによる高速取引も存在しなかった時代に、株主は「社員」であり、「membership」であり、「company」であり、「associe」であった。日本は、株主を社員と呼ぶことの真の意義を理解できず、平成17年会社法は社団という概念自体を廃棄した。一般社団法人法上の一般社団とは実は英国のcompanyそのものなのだが(英国のcompanyは非営利が原則)、そうした発想の意味を日本人は自分のものにできなかった。いまや日本の株主とはshareの保有者holderでしかないので、カネさえあれば株主になれ、議決権行使の根拠もカネとなった。欧州の感覚では、市民社会の構成員である個人、つまり社会の主権者が株主なので「株主主権」というのだが、この最重要事項を日本が理解できないできたことが今日の外資(または外資の衣を被った日本人)による日本の企業社会の蹂躙(じゅうりん)を許した。ただ米国は2つの価値観が併存していて、国内に対しては大衆や労働者も広く株式を保有する資本家である「people’s capitalism」の概念が発達しているが、国外に対しては経済の覇権戦争を勝ち抜くために、市場で株式を買えれば主権者という観念を強調し、国内と対外とを使い分けるしたたかさを有している。

――海外では個人の株主とファンドが差別化されている…。

 上村 フランスのフロランジュ法は株式を2年以上保有する株主の議決権を2倍にするものだ。これによりファンドの議決権の割合を低下させ、長期にわたって保有する投資家の議決権の割合を上昇させることができる。ファンドが売るべき時に売らず、買うべき時に買わなければ、ファンドは利益を上げられず出資者への受託者責任も果たせないことになるので、ファンドは2年間も同一企業の株を持ち続けられない。そのため、結果的にファンドの議決権は個人株主の2分の1となる。この点、株主平等原則を固守する日本は、日本人株主とファンド株主を平等に扱うのは当たり前と思い続けており、フランスのような差別化は許されないと思いこんできた。英米には株主平等原則はないのだから、呆れたお人よしぶりと言うしかない。日本企業は物言う資格自体が怪しい外資株主やファンドのために経営しているかの様相を呈している。過剰に与えてしまった議決権を背景に、配当や自社株買いの圧力は非常に大きく、日本企業の利益は海外に流出し、労働分配率の向上には回らない。日本の国力低下の大きな要因は、資本主義市場経済の要石をなす企業関係法制の著しい劣化にある。

――岸田政権の新しい資本主義については…。

 上村 「株主という名に値する属性を株主が有しているのかどうか」、「物言う株主にはそもそも本当に物を言う資格があるのかどうか」といった本質を問い直すことが新しい資本主義の原点だと思う。会社法の基本を取り戻すことは、中間市民層のための会社法制という原点に帰ることを意味する。ここを確立するだけでも利益の分配が変わってくる。ファンドは多額の資金を拠出しているのでその属性に問題がなければ、その分の配当を受け取って然るべきだが、議決権を行使できるかできないかは社会のあり方や将来像を左右する問題だ。外資系ファンドや物言う株主、アクティビストの議決権によって世の中が動かされる状況を変えないままに、企業に賃上げを求めることは岸田政権の「新しい資本主義」とはなりえない。岸田首相には本物の「新しい資本主義」の旗を振った首相として歴史に名を残して欲しいと思っている。日本は会社法の劣化が著しいが、規制緩和を言い続けてきた財界と経産省は結局は自分達の首を絞めてきたのではないか。投資ファンドが東芝(6502)を買収しようとしているときに、本来なら会社法によってファンドの介入を撃退できなければならないところ、そこに頼れないために経済産業省や財務省は外為法上の権限強化によって対応しようとした。見方を変えれば、日本は経済産業省を中心に会社法における規制緩和を進めたが、その結果生まれた問題に対処するために、会社法の健全化を図るのではなく、経済産業省の権限を強める形になっているように見える。

――ファンドや外国の言いなりになっていたら日本の安全保障は危ない…。

 上村 会社法はあくまで国内法で、そもそも経済安全保障の要素を持っている。フランスのフロランジュ法のように、ファンドに対して議決権は通常の株主と同等のものは与えないということが大前提になっているうえでの安全保障と、日本のように何もないところからの安全保障ではかなり違うものになってくる。会社法を正しく理解すれば自ずとそれは経済安全保障につながり得る。このほかにも、会社法は「継続企業の前提=Going Concern」が前提にあり、法定資本制度等のサステナブル概念を十分に内包していた。それをサステナブルでない会社法にしてしまってから、盛んにサステナビリティを言う。株主価値の最大化を言ってきたのでパーパスと言う言葉が流行ったりしているが、もともと会社の目的が定款の目的規定の実現に置かれていれば、パーパスなどは当たり前の話を軽く表現しているものにすぎないように見える。日本で最近流行のカタカナ言葉は日本人にとっては目新しいかもしれないが、それらが目新しいと言うこと自体が会社法の理解不足や日本の後進性を象徴している。それらが企業法制の根幹部分の認識を踏まえたものとして認識されて初めて本物となる。

――会社法における喫緊の課題は…。

 上村 戦前から昭和半ばまで、定款で名義書換後6カ月経過しないと議決権が行使できないと定め得る条項を復活させるべきだ。今は普通株式を1単元以上、決算月の権利付き最終日に保有していればたった1日だけの株主でも株主総会に出席できる。昔は株主でないものが議決権を行使するのは原則無効というのが当たり前だった。また、東証が超高速取引を認めておきながら、コーポレート・ガバナンス・コードを推奨することもおかしい。既に株式を売ってしまって株主でない者も議決権を行使できるとされているが、日々変動する株主名簿を工夫することは可能なのではないか。本来発言する権利がある者を把握しようとすることは規制を強化には当たらない。米国の投資家からすれば、日本は自国ではできないことができてしまう珍しい国になっているようにも見える。日本は会社法を本来のあり方に戻していくべきだが、一度緩和しきった世界を味わってしまうと、規制を元に戻すことは規制を強化することに見えてしまう。いきなり全て変える訳にもいかないが、欧米の現時点の水準に一刻も早く追いつくことで、どこにも通用する企業法制の確立を急ぐべきだろう。[B][N]

▲TOP