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「縄文、世界最古の高度な技術」

東京都立大学教授
考古学者
山田 康弘 氏

――縄文時代は世界最古の煮炊き文明だという説も出てきている…。

 山田 縄文時代のイメージは、昔と今ではずいぶん違っている。例えば私が大学在学中の1980年代頃は、縄文時代は1万3000年程前に始まったと教えられてきた。しかし、縄文時代の研究が進むにつれ実際にはもっと早くから始まっていたと考えられるようになり、土器に付着していた煤を年代測定したところ、1万6500年前頃には縄文時代が始まっていたという説も出てきた。土器の年代だけをみると、中国大陸にはより古い年代をしめすものも存在するが、土器の登場は、おそらく同時多発的なものであり、特定の地域から伝播してきたものではないと考えられる。したがって世界最古を争うことに意味は無い。また、文明の定義には都市と文字の存在が不可欠で、縄文文化を文明と呼ぶのは難しいだろう。

――縄文初期時代の土器に煤が付着していたということだが、その頃から煮炊きしていたたのか…。

 山田 日本列島域における1万5000年程前頃の遺跡からは、水が漏れたり、割れたりしない高度な技術を施した煮炊き用の土器が出土するようになる。そして、現在のところ日本で一番古い、青森県大平山元遺跡出土の1万6500年前頃の土器にも、煮炊きした煤の跡が残っている。ただ、この時代は非常に寒く、当時の人々は動物や魚の脂を土器で煮て、それを携帯用の食料にしたり、火の燃料にしたりしていたらしいことが、土器に残存している油脂の分析から明らかにされている。つまり、土器出現当初は、煮炊きといっても我々がイメージするような、肉や野菜を入れて調理するという事ではなかったようだ。

――縄文時代の人々が主に食べていたものは…。

 山田 縄文人にとって最も重要な食料はドングリなどの堅果類で、特にクリだ。クリの実はアク抜きの必要がなく、保存食にもなる。また、昔の線路の枕木がクリの木だったことからわかるように、腐りにくいクリの木は木材としても貴重だった。そのため、縄文人は多くのクリを栽培していたようだ。特に建物の柱にする為には、わざとクリの木を密に植えて、まっすぐ伸びるようにして育てていたなど、クリ林を用途別に管理していた痕跡がある。また、直径1mのクリの木を育てるには200年~250年程が必要だが、当時の縄文人の平均寿命は50年前後であった為、世代を超える長期に亘ってクリの木を管理していた事もわかっている。また、大豆や小豆などの豆類も広く栽培され、食用とされていたらしい。このような植物管理という観点から話をすると、縄文時代の後半には漆器が広く使われるようになったことも注目される。ウルシを精製し、塗料として使う工芸技術は大変高度なものだが、それが約9000年前には完成しており、既に赤と黒の漆塗料を作り出している。これは世界最古と言っていい。また、ウルシは一本の木から少量しか一度には採取できないので、漆器の制作には相当数のウルシの木が必要となる。ウルシの木についても管理、栽培が行われていたことは間違いない。

――縄文時代の社会の様子は…。

 山田 漆器製作などに関しては専門職人がいた可能性もあり、ある程度は分業が行われていたようだ。また、最近では優美な装身具や副葬品を多量に持つ墓も発見されていることから、縄文時代にも質的な上下関係があったと考えられるようになってきている。特に縄文時代後期にあたる4000年程前には、身分的に上位である特別な家系が出てきた可能性が高い。ただ、当時の人口は日本列島全体で最大26万人程度とまだ少なく、上下関係が固定化されるほどの人口数はない。身分の違いといっても「階級社会」ではなく「階層社会」という表現が適している。呪術を行うような人(呪術者)や、薬草の知識がある人(呪医)など、幼少の頃から英才教育を受け、特殊な職掌を担う家系が存在し、それが階層上位にいたという感じだ。但し、このような階層化社会は一時的なもので長続きはしなかったようで、3200年くらい前の縄文時代晩期には、またフラットな社会へと変化したらしい。

――縄文人の移住生活が定住生活へと変わるようになったきっかけは…。

 山田 氷河期が終わり、急激に温暖化が進んだ1万1500年前頃~7000年前頃には、海水面が現在よりも3メートル程上がり、関東地方では今の栃木県栃木市まで海水が入ってきたことがあった。その際に、今まで谷だったところに海水が入り込み小さな湾が形成された。そこでは、クロダイやスズキやボラなどの内湾生の魚類が生息するようになった。また、川が流れ込んでいたところでは、土砂の堆積により砂浜が形成され、そこにアサリやハマグリなどの貝類が生息するようになった。さらに温暖化によって猪や鹿などの中小型動物が多くなり、クリ・クルミ・ドングリといった堅果類が沢山生育するようになる。このような環境変化に縄文人は敏感に反応し、多くの動植物を新たな食料として開発していった。もちろん土器はその際に非常に効果の高いツールとして利用された。土器で煮るという調理方法が登場したことで、植物の毒(アク)を除去できるようになり、少々痛んだ肉や魚も煮込むことによって食べられるようになった。環境が変化し、土器が登場したことで、食料の種類と利用可能量は大きく増加し、人々は食料を探し求めて広範囲に歩き回る必要がなくなった。これが定住生活へと連動していったと考えられている。そして、1万3000年程前には、既にしっかりとした竪穴住居が作られていたことも分かっており、本格的な定住生活も開始されていただろう。

――定住生活が始まる中で、問題となったことや新たに生まれた知恵は…。

 山田 定住生活が本格化すると、ゴミや排せつ物の問題や、食料の問題が出てくる。周辺に食物がなくなって別の場所に食料を探しに行こうとしても、条件の良い別の場所には既に人が居て、そこで生活をしているような状況が出現してくる。大きな災害などがあったとしても、すぐに別の安全な場所へ移動するようなことも出来ない。定住生活をする事で移動生活のメリットを捨てることになった彼らは、それを別の方法で補わなくてはならない。そこで「祈る」というきわめて観念的な方法が発達し、様々な祭祀が行われるようになった。例えば、食料が不安になれば大地の豊穣を祈願したり、子どもが無事生まれるように安産祈願を行ったり、病気やケガがきちんと治るように平癒祈願をしたりといった様々な「祈り」を行うための呪術具として土偶や石棒が発達した。このような「祈り」は、やがて宗教の興隆へとつながっていくことになる。また、ゴミ捨て場や集会所、作業場、トイレなどをどこにするかという土地利用のルールが決められ、初源的な都市計画がつくられた。このような集落は、縄文時代の後半にもなると、黒曜石の採掘、漆器の制作、土器の制作、干し貝の加工、塩の生産などといった、各々の特色を生かして集落ごとに機能分化し、縄文人の生活も一つの集落の中で全てをまかなう自給自足的なものから、必要な物資を集落間で相互に交換することにより生計を立てていく交換経済へとシフトしていったと考えられる。そのため、縄文人は集落と集落のあいだに物流ネットワークを張りめぐらせていった。このネットワーク上では、モノの交換だけでなく、婚姻という形で人的資源の交換も行われ、婚姻と血縁という関係で各集落は結びつき、ネットワークを維持していたのだろう。

――文字や数字が使われていた痕跡は…。

 山田 縄文人は土器の文様に様々な意味を込めていたと考えられるが、文字あるいは文字に相当する記号などは、今のところ見つかっていない。おそらく無かったのではないか。しかし、縄文人が数学的感覚を持っていたことは間違いない。例えば、秋田県鹿角市大湯環状列石からは、列点によって1から6までの数字を表した土版が出土しているし、土器の文様を3分割、5分割、7分割することもしている。このような点は縄文人が数学的なセンスをもっていた証拠だ。

――縄文時代と弥生時代の典型的な違いは…。

 山田 日本の歴史を経済的な観点から区切るとすれば、やはり食料獲得段階と食糧生産段階の境目で大きく分けることができるだろう。日本の歴史において灌漑水田稲作、農耕の登場は画期的だ。水田を作るためには多くの人が関わり合うため、狩猟・採集・漁労といった食料獲得段階とは労働形態が大きく変わってくる。水田が拡大していくとともに、一つの集落だけではなく複数の集落が食糧生産に関わり合いを持つようになる。そこで弥生時代になると縄文時代よりもさらに大きなコミュニティが発達するわけだが、今度は集落間において発生した諸問題を解決する手段として、暴力に訴えるという方法が登場してきた。実際、弥生時代には石でつくられた剣(磨製石剣)で殺された遺体、首をとられてしまった遺体など戦闘による犠牲者が発見されている。恐らく稲作文化の流入とともに、問題解決の方法として闘争・戦争を行うという思想が、日本列島域に入り込んできたのだろう。そういった面から考えても、縄文文化と弥生文化は全く質の異なるものだ。しかしながら、縄文時代に開発された様々な生活技術や精神文化は弥生時代以降にも引き継がれており、現代社会の端々に顔をのぞかせている。その意味では縄文文化は現代社会における基層文化の一つと考えてよいだろう(了)

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