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「日本の八百万神と世界の宗教」

宗教学者
正木 晃 氏

――3年前に「宗教はなぜ人を殺すのか(さくら舎出版)」という本を執筆されている…。

 正木 今起きているロシア・ウクライナ戦争について、ロシア正教会の総主教キリル1世は「邪悪な勢力との戦いだ」と宣言し、ウクライナやウクライナを支援する西側諸国を「Evil Forces」と呼んでいる。一方で、ウクライナ正教会のトップは、今回の戦争は旧約聖書で最初に勃発した、アダムとイブの息子たち、つまりカインとアベルによる兄弟同士の殺し合いの再来だと言っている。もともと同系統のロシア正教とウクライナ正教がお互いを非難し合うようになっており、双方が戦争のために宗教を利用するようになってきている。ロシア正教は基本的にLGBDなど、いわゆるマイノリティの人たちを認めようとしない古典的な宗教だ。キリスト教系の新聞によればロシア側は今回の侵攻を「宗教戦争」と論じ、さらにはキリスト教が想定してきた世界最終戦争である「黙示録的な戦い」とも主張している。

――宗教を使って、戦争に突入した自分たちを正当化しようとしている…。

 正木 キリスト教やイスラム教徒などの一神教には「殲滅(せんめつ)」という言葉があり、異端とされるものは殺されるか追放されるかの二択だ。十字軍もそのような思想のもとに結成された。一方で、日本では戦国時代に浄土真宗本願寺教団の教徒たちが権力に抵抗して起こした「一向一揆」がある。一神教と多神教では平和や宗教に対する考え方が違うが、日本仏教でも浄土真宗を開いた親鸞聖人の思想の中には「正しい法を犯すものには暴力をもって立ち向かえ」という教えもあり、一向一揆は浄土真宗の教えを護るために発動された。開祖の意向はさておき、宗教の歴史を振り返ると、程度の差はあれ、自分たちの信仰を誹謗中傷したり弾圧したりする相手に対しては、暴力をもって立ち向かう面がある。宗教の持っている功罪を冷静に判断しておかなければ、のちに大きな問題になる危険性を孕んでいる。

――宗教は人の心を癒し、困っている人を救うという面もあるが、一方で自分の宗教を守るために人を殺すという面もある…。

 正木 宗教には二つの機能がある。一つは個人の精神を救済するという機能、もう一つは集団に規範を提供するという機能だ。そして世界の宗教の大部分は後者の要素が大きい。現在日本に普及しているキリスト教は明治維新以降に広がったものだが、戦国時代の宣教師たちにはキリシタンを利用して日本を制圧する目論見があったとか、日本国民をキリスト教徒としたうえで中国を侵略しようとしていたという説もある。江戸時代初期の島原の乱も、近年の研究では世俗的な一揆ではなく宗教戦争という面がやはりあったとされている。キリシタンが既存の宗教(仏教・神道)に対して極めて過酷な対応をしていたことも事実だ。例えば カトリック教会の福者として尊敬されているキリシタン大名の高山右近が、戦国末期に統治していた現在の大阪府茨木市周辺には、古代や中世から祀られていた神社仏閣が見当たらない。高山右近がすべて壊してしまったからだ。人間は集団になると権力を拡大させていきたいという心理が働く。そして、その集団に規範を与える事が、良くも悪くも宗教の持つ最大の機能だ。

――旧統一教会の問題もそのような機能によって引き起こされたのか…。

 正木 反社会的な性格の濃い宗教団体が主なターゲットにしてきたのは、とても真面目で、しかも精神的にやや弱いところや偏りがあったりする人だ。あるいは病苦などに追い詰められて、助かるのであれば、藁をもすがるという心境にある人だ。また、本気で「悟り」を求める人も、実はターゲットになりやすい傾向がある。「旧統一教会」の信者も、根拠のない足裏診断で多額の金銭を騙し取っていた「法の華三法行」の信者も、凶悪なサリン事件を引き起こした「オウム真理教」の信者も、入信した人たちの多くは当時、皆、本気で救いを求めていたのだと思う。かつて、オウム真理教の信者は「日本の寺は風景でしかなかった」と語っていたが、実際に現実の伝統仏教界は本当の意味で人を救う力を持っていない。そこにオウム真理教が台頭できる余地があった。現に、オウム真理教の麻原彰晃は桁違いなヨガの能力を持ち、仏教には欠かせない瞑想修行を非常に高い次元で実践しているとされたこともあって、自分の潜在能力を引き出してくれるかもしれない教祖として崇めるには申し分なかったのだろう。仏教では「輪廻転生」と言って、人は生老病死を繰り返しながら永遠に生まれ変わり続けるとされている。しかし、老いや病といった苦しみを二度と味わいたくない、繰り返したくないと思うならば、生まれ変わらなければよい。このため、仏教の開祖、ゴータマ・ブッダは、瞑想をして悟りを開くことで、完全にこの世から消滅して生まれ変わらないことを願ってきた。その後、仏教は時代とともに大きく変容し、目的も完全な消滅ではなくなっていったが、修行の中心に瞑想が位置付けられる点は、今もなお変わらない。それは、坐禅と呼ばれる瞑想法を実践する禅宗が、日本はもとより、アメリカでもアップルのジョブズの帰依を得たように、人気を博している事実からも証明できる。したがって瞑想指導の達人は、インドのラジニーシをはじめ、特別な存在として崇められてきた。それを思えば、麻原が尊崇されたのは無理もなかったと言える。

――日本では「八百万の神」という文化の中で、仏教もキリスト教もイスラム教も迎え入れているが…。

 正木 人類の起源をミトコンドリアDNAで辿ってみると、日本人のミトコンドリアDNAは約16種類あるという。欧州で約15種類、世界中で約55種類という事を考えれば、日本人の遺伝的形質は非常にバリエーションが多く、様々な遺伝子が混ざり合って現在の日本人を形成してきたことがわかる。そして、このバリエーションの多さが、「八百万の神」を信じる文化や、多神教の精神を生み出しているのかもしれない。他方で、反発を恐れずに言うならば、日本は「負け犬連合」という面もある。数万年前に人類がアフリカから初めて出て他の地に移住したのは5~6000人。そこから様々な大陸へと拡大していった訳だが、どんなに冒険心や開拓欲があっても、わざわざ危ないところには行かないはずだ。何らかの理由でそこに居られなくなり、行き場の無くなった人たちが、最終的に日本という場末の島国に辿り着いた。そう考えた方が自然科学的な次元で正しい説だと思う。そして、そのような背景から生まれた日本人は、他の地域の人々に比べれば、戦うということに関して、積極的だったとはとても言えない。戦乱の世とされる戦国時代でさえ、日本人自身は最高に悲惨な時代だと思っているが、世界水準からすれば、むしろ平穏だった。それは、当時欧州から来日した宣教師は「こんなに平和なところがあるのか」という手記を残しているほどだ。例えば、16~17世紀のヨーロッパに勃発したカトリック対プロテスタントの宗教戦争で最大の被害地域となったドイツでは、人口が戦前の3分の1に激減した。19世紀の初頭、ナポレオンは20年間に85回も戦争をした。そのような歴史を持つ欧州に住む人たちの感覚と、敵対者も徹底的に殲滅することなど思いもよらない島国に住む日本人では、戦いに関する意識は全く違う。そして、私たちの考える「平和」と、キリスト教徒やイスラム教徒が考える「平和」も違うのかもしれない。

――戦争時のカオス状態を治めるのも、宗教の役割なのか…。

 正木 宗教には、戦争を正当化しようとする役割と、何とか緩和しようとする役割の両面がある。イエス・キリストは暴力反対を主張し、戦うことを拒否していた。ただし、イエスの出現はすべて旧約聖書において予言されているというのが基本的な教義なので、暴力肯定の旧約聖書を無視できない。そのため、キリスト教は、カインとアベルの物語から始まって、モーセによる他民族の虐殺を正当な行為として描き出す旧約聖書に準じて、戦争や人殺しの正当化を繰り返してきた歴史がある。つまり、旧約聖書が道標の根底となっているキリスト教においては、人殺しは容認されるべきものになっているということだ。また、イスラム教については「世界中がイスラム教徒にならなければ幸せにはならない」という教えがあり、聖典コーランには「異教徒を皆殺しにせよ」という言葉もある。実際の歴史では、ある時点で、世界中の人々をイスラム教徒にする事など出来ないとわかり、そこで妥協することになった。ところが、近年、イスラム世界の衰退や矛盾の露呈から、穏健なイスラム教ではもうだめだ!コーランに書かれている文言をそのまま実行して何が悪い!と主張するイスラム原理主義が台頭してきている。これは非常に危険かつ複雑な問題を孕んでいる。

――宗教によって「平和」の形が違うとなると、今後の世界はどうなっていくのか…。

 正木 今の世の中は政治と経済の力が非常に大きくなっており、それが宗教を担ぐような形で展開し、宗教もそれに便乗して、お互いに利用し合う関係になっている。もともと欧州では中世末期に起こったカトリックとプロテスタントの宗教戦争において、イスラム教徒の多いオスマントルコが、キリスト教であることではカトリックと変わらないはずのプロテスタントを支援していたように、「敵の敵は味方」という利害関係の論理だけで動いている部分がある。そのような考え方は今後も簡単に変わるものではないだろう。一方で、日本には「強い国が弱い国を支配することは当然だ」という意識はあまりなく、そういった意味では世界のスタンダードな考え方からは少し外れている。それは多神教と一神教の違いなのかもしれないが、もしかしたら日本も、近い将来には「力がすべて」というような意識になっていくのかもしれない。宗教は微妙な問題が複雑に絡み合っている為、簡単にその仕組みを変える事は出来ないが、事態を単純化せず、解決は難しいという認識を前提に、少しでもお互いの違いを認めて協力し合うという考え方が、今の世の中には必要なのではないか。(了)

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