第一生命経済研究所
経済調査部 首席エコノミスト
永濱 利廣 氏
――「中間層復活に向けた経済財政運営の大転換」という報告書を発表された…。
永濱 この報告書で一番伝えたかったことは「高圧経済政策と労働市場改革」の必要性だ。高圧経済とは、金融政策と財政政策に特化して需要不足の状態から需要超過の状況にする事だ。普通の国であれば高圧経済を行えば経済は過熱し、給料も上がっていく。今の米国がそうだ。しかし、日本の場合は高圧経済だけでは賃金まで波及しない。海外に比べてメンバーシップ型雇用が多いため労働市場の流動性が低く、企業が賃金を上げなくても従業員が辞めにくい仕組みになっているからだ。そのため、日本では高圧経済と労働市場改革の二本立てで経済の好循環を作り出す必要がある。
――日本でこれ以上の金融政策が可能なのか…。
永濱 確かに日本の場合、マクロ経済学的にはほぼすべての金融政策をやりつくしている。そのため、財政をもう少し放出しなくてはならない。米国のように経済が過熱している国では、これ以上財政を放出するとインフレがさらに進むため注意が必要だが、日本の場合は現在需要不足という状況にあるため、もう一段の財政支出が可能だ。しかし、日本のように消費性向が低い国で給付金などをばらまいても消費には回りにくい。今は感染症や戦争といった100年に一度起こるような事態に直面している。これを、経済構造を変える契機だと捉え、例えば、環境やデジタル分野、軍事、食料、エネルギー、戦略物資など安全保障分野の規制を緩和して、官主導による長期的視点で大規模な財政支出を行い、需要を喚起すればよいのではないか。食料やエネルギーの自給率を上げ、生産拠点を国内回帰させるとともに、労働市場改革に取り組めば、物価上昇も抑制することが出来て、消費を促すような環境が整ってくるだろう。
――この20年で、日本の政府債務残高は1.8倍に増えているが…。
永濱 確かに増えているが、拡大ペースはG7諸国の中で最低だ。米国と英国が5倍以上、フランス、カナダが3倍。ドイツとイタリアと日本など第二次世界大戦の敗戦国はあまり増えておらず、ドイツ2倍、イタリア1.9倍となっている。日本は支出傾向の高まる財政政策にはアレルギーがあるようだ。しかし、政府が国債発行をしてお金を使えば、国内で使われた分は民間資産となる。つまり、米英はこの20年間で政府債務を5倍に増やし、その分民間資産を増やしたことになる。一方で、日本は1.8倍しか政府支出を増やしていないため、相対的に民間資産も増えていない。また、財政を使うのであれば出来るだけ需要喚起効果を高めるために、お金を使った人が得をするような減税政策を取り入れるべきなのだが、日本政府は減税をやりたがらない。当局者にその理由を聞くと「一回下げると再び上げるのが大変だから」だという。
――日本が「財政均衡主義」であることも一つの要因だ…。
永濱 日本は「財政均衡主義」だが、他方、グローバルスタンダードでは「機能的財政主義」という「政府債務は減らすことが是とは限らない」という考え方が一般的だ。つまり、政府債務はマクロ経済の物価や雇用を安定させるために適切な水準にコントロールすべきものとされている。そう考えると、需要不足が続いている今の日本には政府債務が足りていないことになる。日本以外の国では企業が投資超過主体としてお金を使うため、政府債務をそこまで増やさなくてもある程度経済は安定するのだが、日本はバブル崩壊後、マクロ経済政策を誤ったために、民間部門がお金を溜め込むようになった。そんな中で経済を安定化させるには、政府が呼び水となって民間部門の経済を回すしかない。経済が冷え込んで金融政策も限界にある国は政府債務を増やさなくてはならないという事だ。ただ、日本には他の国と違って国債償還60年ルールがある。戦後のGHQ傘下で日本が再び戦争を起こすようなことがないように作られたとの説があるが、このルールがあることによって、政府は財政均衡主義を何としてでも貫こうとしている。この財政法第4条にこだわり続ければ、日本経済の正常化は難しいだろう。
――今の日本では、企業に潤沢なお金があっても上手く民間に流れず、国債ばかりに回っている。そして、実質賃金も増えていない…。
永濱 マイナス金利なのにお金が流れないのは、需要に期待できるものが乏しいからだろう。さらに、日本では企業も国民もお金を使わずにため込んでおり、中立金利が大幅にマイナスとなっているため、金融緩和によって今より金利を下げるような事はマクロ経済学的に困難となっている。そういう停滞時には財政政策で底上げするしかないのが世界標準の考え方だ。また、そもそも経済が成長していない中で賃金を上げるのは難しい。加えて、冒頭に述べたように、日本的雇用慣行で労働市場の流動性が低いことも賃金が上がらない原因だ。端的に言うと、日本は賃金よりも雇用の安定を重視しており、新卒一括採用や年功序列、退職金の優遇などもあって、同じ会社に長くいるほど恩恵を受けやすい仕組みになっている。そうなると企業側は釣った魚にエサをあげなくても逃げられにくい。それが、日本が高圧経済だけでは賃金が上がりにくい理由だ。労働市場の流動性を上げるためには、解雇規制の緩和と公的職業訓練の充実が必要だ。また、海外のようにジョブ型雇用を拡大していくことも重要な鍵となろう。
――日本で働く人の賃金を上げる事を要請されるなら、賃金の安い海外の工場ですべての生産を完結させようという流れもあるが…。
永濱 一昔前までは、出来るだけ低い賃金で質の高い製品を作るために、工場を海外移転させグローバル展開をしてきたが、今は経済安全保障を考える必要性が高まっており、サプライチェーンの再構築が進められている。技術流出問題も考慮すると、日本の賃金が非常に安くなってきている今、このタイミングで生産拠点を国内回帰させるのは良い機会なのではないか。それをやることによって国内の雇用も確保できるようになるだろう。一方で、日本は海外で安く製品を作っているから国内の物価が上がらないという声があるが、米国や英国も海外でモノを作って輸入している。それでもインフレ率は日本と全く違う。特に違うのは、サービスの値段だ。サービスはモノのやり取りがない分値段に占める人件費の比率が高いため、賃金が上がらない中でサービスの値段が上がらないのは当然の事と言えよう。
――MMT(現代貨幣理論)に異を唱えておられるが、同じような財政出動でもどのような点が違うのか…。
永濱 MMTを端的に「マクロ経済をコントロールするのは財政政策主導」という理論とするならば、私が賛同出来ないのは「金融政策は無効であり、すべては財政政策でコントロールできる」という点だ。MMTが主張する理論は主に「信用貨幣論」「機能的財政論」「内生的貨幣供給論」の3つだ。「信用貨幣論」は説明するまでもなく正しく、「機能的財政論」も基本的には正しい。しかし「内生的貨幣供給論」は「貨幣量は実体経済の状況によって内生的に決まり、金融政策は無効」という理論であり、一方で、私が正しいと考えるのは「外生的貨幣供給論」という「実際の経済状況に応じて金利をコントロールすることで金融政策は機能する」という理論だ。この点がMMTと私の考えでは決定的に異なっている。(了)