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「まん延は専門家の楽観が主因」

白鴎大学
教授
岡田 晴恵 氏

――2年前の政府のコロナ対応はとてつもなく初動が遅かった…。

 岡田 2019年の暮れに、新型コロナウイルスが武漢で患者発生が報告され、2020年2月に日本に感染者を乗せたダイヤモンド・プリンセス号が寄港した当時には、国の専門家にリスク評価の上で楽観視があった。それは、2002年に中国広東省で報告され、2003年3月初め世界中に1週間で飛び火したSARS(重症急性呼吸器症候群)や、2014~2015年に韓国で拡大したMERS(中東呼吸器症候群)が直近の新しいコロナウイルスの流行であったが、日本にはウイルスが侵入することなくニアミスで感染が広がらなかった。近隣諸国は感染や流行で大変ではあったが、日本国内の感染拡大はなかった。たまたま幸運であったことによるこの「成功経験」が、「今回も同様に大したことにはならないであろう」というリスク評価の甘さ、楽観視に繋がった。日本のコロナ禍の問題は政治問題とみられがちだが、新型コロナの感染拡大もそもそもが感染症の専門家らのこのリスク評価の躓きに端を発していると思う。政治家は感染症、ウイルス学にも素人であるので、最悪の事態までを想定したリスクを彼らにわかるようにきちんと伝えていたかが問題だ。私の経験上、政治家、特に所轄の大臣以上の方々は皆、その道の専門家に詳細な説明を受ける。今回の新型コロナ対応では、後に新型コロナウイルス感染症対策分科会長となった尾身茂氏や内閣官房参与となり総理に直接話ができる川崎市健康安全研究所所長の岡部信彦氏らがその責務を担ったであろう。尾身氏や岡部氏はSARSとMERS、さらに2009年の病原性の低かった新型インフルエンザの対応をまさに経験している。このコロナがSARSやMERSと異なる性質のウイルスで、世界的大流行となり、日本でも拡大、緊急事態宣言を出す事態となり得ることを想定できたであろうか。

――尾身氏らの成功体験がコロナ楽観視につながったと…。

 岡田 2020年の1月、国の新型コロナの専門家委員会ができる以前にこの新型コロナウイルス感染症は「指定感染症」、「2類相当」と決められている。これはどんなエビデンスで誰がどういう経緯で決めたのか、未だ不明だ。結核と同じ2類に指定されるということは、感染者は全員が隔離措置となるが、その病床数は全国でも限りがある。つまり、新型コロナウイルスはそんなには広がらないと踏んだことになる。さらに感染症法という厚労省で対応するレベルの感染症に落とし込んでいる。私にはそれは政治家の意見で決めたとは到底思えない。そもそも、2012年に制定された「新型インフルエンザ等特別措置法」は、この新型コロナウイルスのような未知の感染症が発生した場合に備えるための法律だ。これに従い、本来であれば新型コロナは即座に「新感染症」とし、「新型インフルエンザ特別措置法」を運用すべきであった。そうすれば、危機管理として全省庁横断でこの事態に速やかに、かつ臨機応変に対応できたはずであった。この初期対応を見誤ったことによる時間のロスと、リスク評価の甘さが対策の遅れに繋がったのではないか。

――特措法を運用するまでに時間が掛かってしまった…。

 岡田 結局、政府は新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)を改正し、特措法を運用することになるのだが、この段階で2ヵ月の貴重な初期対応の時間が失われている。最初から「新感染症」とすれば、わざわざ法律を改正せず、既にある特措法のまま運用することができていた。また、特措法が運用できていれば、各所に事前に策定されている「行動計画」に従い、円滑に対応ができたはずだ。たとえば、クルーズ船の対応は紆余曲折があったが、港湾での新型ウイルスに対応する「行動計画」を運用できたはずだ。全員検査、全員下船という選択肢も速やかにとれたのだ。また、この同時期にPCR検査の絞り込みがあった。「37.5℃以上4日」を経過してからではないと検査が受けられないという検査しばりであった。SARS(急性重症呼吸器症候群)は発症約5日後からウイルスを出し、重症であることから感染者が見つかりやすい。おそらく、SARSのこの性質と同じであろうと考えて決めたのであろう。しかし、すでに2020年1月の段階で、この新型コロナウイルスは「無症状の感染が他者に感染させる」ことが海外で報告されていた。さらには潜伏期の発症前からも感染力があり、発症前後にウイルスの排出がピークとなることなどもわかってきた。この37.5℃以上4日を待つことで、感染拡大を招くことは自明であった。このようにサイレントキャリアがおり、その人たちが感染を広げるという性質がわかった段階で、速やかに検査の拡充に対策の舵切をすべきだったであろう。このように初期の判断ミスやリスク評価の甘さが続くことで、その後の感染の拡大に繋がったように思える。これは、政治家ではなく、感染症学、ウイルス学的な判断、専門家の問題だ。

――第5波、6波と続く前に専門家が対策を代えることはできなかったのか…。

 岡田 「これまでの対策はこうだったが、それを検証したところ、こう間違いがあった。だから、今後は新たにこういう政策に訂正します」という検証と説明、さらに反省に基づいた政策の転換が出来ていない。これを日本の組織でやろうとすると、誰かが責任を取ることになる。専門家は自身のキャリアに傷がつく。だから、今でも、コロナ検査を絞ってきたことで医療崩壊を免れたという立場をとっている専門家の方々もいる。しかし、当時、安倍総理はむしろ検査を増やそうとしていた。その後、感染状況が変わり検査拡充が必要となり、田村憲久厚労大臣らが検査を増やした。しかし、第5波、6波でも感染者が増大して検査が追い付かず、陽性率が非常に高い状況となった。これは、検査が足りていないということだ。第6波は検査せずに「見なし陽性」ということもあった。検査の遅れは診断の遅れとなり、治療開始の遅れになって、国民が速やかに治療を受けられないという重大な問題も発生した。政策決定、国家の意思決定のあり方に専門家がどうかかわるのか。最悪の事態までを想定して政治家に説明し、そこからは政治の判断だ。専門家が政治家の役割をしてはいけない。また、最悪の事態までを想定せずに、起こってほしくないことは無かったことにしたリスク評価の結果がこの事態に繋がっていると考える。

――日本のコロナ対応は逐次投入になってしまった…。

 岡田 感染症対応で重要なことは「強く、早く、短くする」だ。先手を打って強い対策を講じ、感染を拡大させないことで、健康被害はもちろん、経済損失を最小限にすることができる。しかし、政府のコロナ対応は、感染拡大や医療逼迫が確認された後にようやく新たな対応を取っていく、逐次投入の連続だった。新型コロナウイルスのような感染力の強いウイルスの場合、逐次投入では絶対にウイルスに負ける。なぜ専門家はその提言をもっと明確にしなかったのか。たとえば初期の感染拡大が起こらない段階で強い対策を打ったなら、大きな問題なく済んだかもしれない。しかし、起こっていないこと、前例のないことに強い対策を打つことは現実には難しい。日本社会、特に組織においては、やって失敗するよりもやらないで失敗する方が、批判されず、地位を守ることができる。だから政府に助言する専門家もそのリスクをとらない。感染が拡大し問題が顕在化してきたから、それに対応ということになる。今回のコロナ対応では、対策分科会や諮問委員会、厚労省のアドバイザリーボードといった公に国が起用した専門家の方々は、公の立場にいながら自分自身のリスクヘッジを優先したのではないか。公の立場に立った人は、個人、私のリスクを捨てて、公を取って欲しかった。そして、政治と専門家は分離しなくてはいけない。

――オミクロン株以降の対応については…。

 岡田 緊急事態宣言に至るような特措法運用時には、一般医療を圧迫しないために、医療者を効率的に配置した大規模集約診療施設を設置すべきで、これは特措法にも書かれてある。大規模医療施設には酸素配管を行い、普段は体育館などとして使えばよいが、感染拡大時は病院としての備えができるようにすべきだ。中等症患者に対しては、ここで重症化を阻止する。変異を繰り返すコロナにはワクチン効果だけでは限界があり、大規模診療施設やコロナ専門病院を作り、一般医療を圧迫しない体制も求められる。オミクロンが最後の変異ウイルスではない。検査を増やして、陰性の人で経済を回すという選択肢も経済を救う。こうして、次なるパンデミックに備え医療体制と経済を維持していくことが必要だ。(了)

岡田氏は昨年12月、尾身分科会会長、田村前厚労大臣などコロナ対応の中心人物とのやり取りなどを記録した著書『秘闘』(新潮社)を上梓されました。

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