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「日米不平等協定で半導体撃沈」

半導体産業人協会
特別顧問
牧本 次生 氏

――日本の半導体産業はトランジスタから始まった…。

 牧本 半導体産業は、終戦直後の1947年にトランジスタが発明されたことから始まる。トランジスタより前には真空管が使われていたが、トランジスタは真空管より遙かに小さく、より多くの仕事をする。本格的にトランジスタの工業生産が始まったのは1950年代半ばからだが、日本とアメリカではその発展の仕方が随分異なっていた。日本では、真空管を使い今の電子レンジくらいの大きさがあったラジオに代わり、トランジスタを使って弁当箱くらいの小さいラジオが思わぬ大ヒット商品となり、日本の花形輸出商品になった。ラジオの開発に続き、白黒テレビ、カラーテレビ、VTRもトランジスタを使って真空管式より良いものができるようになり、その後ソニーのウォークマンにつながっていく。半導体を使った家電製品は日本の独壇場になり、世界を席巻した。

――米国での発展は…。

 牧本 一方、米国の半導体産業は日本と全く異なり、軍事用として発展した。トランジスタが発明される前、米国ではミサイルやロケットに真空管が使われていたが、この制御システムは大変重いものだった。これをトランジスタに代えることで軽くなって遠くへ飛ばせるようになった。1958年にはトランジスタに続いてIC(集積回路)が発明された。ICは爪の大きさほどで、トランジスタを何百個も搭載することができたので、半導体の主流はICとなって行った。1960年には当時のケネディ大統領がアポロプロジェクトを立ち上げた。これは月に人間を乗せたロケットを打ち上げるプロジェクトで、この有人宇宙船の制御システムとしてICが数多く搭載され、人類は無事に月に降り立った。1960~1970年代においては、米国と日本は家電用と軍事用の違いで住み分けを行っていたため、貿易摩擦などは起こらなかった。しかし、1970年代には米国を中心にコンピュータがICを使う主流の産業になってきた。そして、コンピュータに搭載されるDRAMと呼ばれるメモリを1970年代の半ばころから米国に続き日本も生産し始めるようになった。

――日本の半導体産業が米国を追い抜いた…。

 牧本 DRAMについても最初は米国がリードしていた。最初のDRAMは1Kb(キロビット)で、それが約3年ごとに4Kbになり16Kbになりと、4倍ずつ増える。16Kbまでは米国がリードしていたが、64Kbでは日本が米国を追い抜いた。1981年にフォーチュンという雑誌が、DRAMの分野で日本が米国を追い抜いたことを大々的に取り上げたことをきっかけに米国内で日本に対する警戒感が高まった。半導体産業においてはその初期から米国のシェアが日本を上回っていたが、日本は最先端のDRAMの技術でリードしたため、1986年には半導体全体でも日本が米国を追い抜いた。

――米国は日本の半導体産業を目の敵にし始めた…。

 牧本 それまでトップシェアを誇っていた米国では大騒ぎになり、日本を何とか抑え込まなければならないという世論が生まれた。米国は日本のメモリがダンピングしているのではないかという難癖を付けはじめ、米国の商務省が調査に乗り出した。1985年には日米の政府間協議がはじまり、1986年に日米半導体協定が締結された。この協定の主な内容は2つあり、1つは日本がDRAMのダンピングを行うことのないように日本企業は自由に価格を決めてはならず、米国政府が価格を決定するという取り決めだ。両国の政府が一体となり、日本企業に製品のコストデータの提出を求めた。このとりきめによって、米国や韓国のメーカーは日本のものより少し安い値段を付ければ簡単にシェアを獲得できることになる。2つ目は、日本の半導体市場での外国メーカーのシェアを10%から20%に拡大する取り決めだ。当時の日本には家電製品向けを中心に巨大な半導体マーケットがあったが、日本の半導体メーカーが圧倒的なシェアを保持しており、外国メーカーは10%ほどしかシェアを持っていなかったのだ。明らかに不平等な協定だが、当時の米国と日本の国力の差では、このような理不尽な要求をされてもそれをはねのける力がなかった。同時期に韓国メーカーがDRAMの生産開発を始めていたが、韓国メーカーはDRAMを日本に持っていけば、外国製半導体を購入するノルマで容易に販売できるため、まさに漁夫の利と呼べる状況だった。

――その後協定は解消されたが、日本の半導体は弱体化してしまった…。

 牧本 1996年に日米半導体協定は解消されたが、その後も日本の半導体は弱体化が進んだ。半導体協定が弱体化のきっかけにはなったが、それがすべてではない。その主な原因は1990年代にマーケット構造がアナログ主体からデジタル主体へと変化したことだ。日本が得意としていた民生品(テレビ、ラジオ、VTR)はすべてアナログ製品だが、1990年代にはピークアウトし、デジタル製品のパソコン市場が民生品市場を上回っていった。しかし日本はこのパソコン時代に乗り遅れてしまった。さらに2010年頃からはスマホが半導体市場の中心となったが、スマホの時代にも日本は乗り遅れてしまった。これらを総括すれば半導体分野での日本の戦績は1勝2敗だ。1勝は家電、2敗はパソコンとスマホだ。これが半導体低迷の根本的な原因である。反対にアメリカは2勝1敗となって、今や半導体王国となっている。しかし半導体市場は変化が激しく、今後も新しい展開があると思う。スマホの次にはロボティクスの時代が来ると予想している。日本半導体の復権のためにはロボティクス分野で勝たなければならない。ロボットというと、人間のように2足歩行するものをイメージするかもしれないが、自動運転車やドローンなどもロボットの仲間だ。自動運転車が進化すれば「自動車は人を運ぶロボット」に変わって行くだろう。自動車産業は大きな転換期を迎えるのだ。

――日本がロボティクスで勝つためには…。

 牧本 ロボティクスについては、それぞれの企業が研究開発を行い、政府としてもそれなりの施策を打ち出しているが、日本全体として大きな動きになっていない。まずは政府がロボット産業の重要性について国民の理解を得たうえで思い切った振興策を打ち出すべきだ。つまり日本が向かうべき明確な旗印を立てるべきだ。自動車業界には大変革の時代が到来する。足元では電気自動車(EV)の動きが出てきて、テスラや中国の新興の電気自動車メーカーが活躍し、産業構造が変化している。EVの発展形が自動運転車(ロボティクスの仲間)であることは確実だ。ロボティクス分野で勝つためには、半導体の技術開発で先行しなければならない。半導体とロボット産業の相乗効果を生み出すことが極めて重要である。ロボティクスの開発は民間でもやってはいるが、さらに思い切った開発投資が必要であり、国が率先して支援しなければまた日本は取り残されてしまう。今はスピードの速いデジタルの時代だ。日本はかつてアジアのリーダーであったが、今では「世界デジタル競争力」においてシンガポールや香港、台湾、韓国などにも抜かれてしまった。コロナ禍で日本のデジタル技術の遅れが顕在化したように、日本の政府はデジタル時代にフォローできていない。日本政府には、新しい産業をこれから興すという気概を持ち、時代を捉えることが期待される。

――日本政府が台湾の台湾積体電路製造(TSMC)を誘致し、半導体工場の設立が決まった…。

 牧本 台湾のTSMCは他社からの委託を受けて半導体デバイスを製造するファウンドリ企業で、開発済みの製品を生産しているため、サプライチェーンの安定化には貢献し、納入品が途切れる心配は少なくなる。また、半導体の製造装置や材料メーカーといった川上産業にとってはお得意様となるため一定のメリットがある。しかし、日本の半導体問題の本質はマイコンやロジック、メモリなどのデバイス産業が絶滅危ぐ状態にあることであって、TSMCを誘致してもこれを救うことはできない。絶滅危ぐから脱却するには川下産業との連携で新しい半導体市場を制覇しなければならない。それにはこれから本格的に立ち上がるロボティクス市場がもっとも有望な市場だ。官民の総力をあげてこの市場を制覇することが、日本の今後を左右するカギであることは間違いない。(了)

11月上旬、筑摩書房より牧本氏の『日本半導体 復権への道』(ちくま新書)
が発売されました。

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