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「忍び寄るハイブリッド戦争」

慶應義塾大学
総合政策学部教授
廣瀬 陽子 氏

――この程、「ハイブリッド戦争(講談社現代新書)」という本を出版された。このテーマで書こうと思われたきっかけは…。

 廣瀬 もともと出版社の方から「ロシア外交」をテーマにした教科書的な本を書いてほしいという依頼があったのだが、私の研究はあまりオーソドックスではなく、教科書的な内容に仕上げることが非常に難しかったため、ちょっと方向性を変えて、今、ホットな話題であるハイブリッド戦争について書こうと思った。私は2017年~2018年にフィンランドに滞在して在外研究をしていた経験がある。ロシアの脅威に常に晒されながら中立的なスタンスを維持する外交を模索してきたフィンランドは、ハイブリッド戦争の脅威を強く感じている。ロシアが旧ソ連諸国や諸外国に影響力を示すための手段として使ってきたのがハイブリッド戦争であり、特にその手法が際立ったのが2014年のウクライナのクリミア併合と東部ウクライナの危機だった。以後、ロシア周辺国はとりわけハイブリッド戦争を恐れるようになった。そして、ロシアの外側から、ハイブリッド戦争を通じたロシア外交を見ると、ロシア外交の本質が見えてきた。それは、私がこれまで行ってきた研究スタイルそのものだ。

――日本ではハイブリッド戦争といってもまだ耳慣れない人も多いが…。

 廣瀬 従来のような通常兵器だけを使った戦法でなく、例えば、サイバー攻撃やフェイクニュースの拡散なども含めた重層的な戦法を使うようなことをハイブリッド戦争と言う。実際にロシアのハイブリッド戦争の恐ろしさを世界に印象付けたのは、前述の2014年のクリミア併合だったと思う。当時、ロシアは、通常戦争に訴えることなく、代わりに政治技術者や特殊部隊、情報戦などを利用してあっという間にクリミアを併合した。日本政府もそのような戦法を見て、戦争のあり方が変わったとして、ハイブリッド戦争の恐ろしさを身近に感じたと思う。実際に2018年の防衛大綱では、これまで10年に1度だった改定を5年に1度という早いタームに変更し、そこに、新しい脅威への対抗を明記している。例えば、日本はこれまで専守防衛だったが、サイバーという領域になると専守防衛では間に合わない。そこで、日本でもサイバー防衛隊を設置し、ホワイトハッカーを備えて防衛するというような方針を取り入れた。ホワイトハッカーの養成は、東京オリンピックにおける積極的なサイバー対策にもつながっている。

――クリミア併合の時に、ロシアは具体的にどのような事を行ったのか…。

 廣瀬 旧ソ連時代から、ロシアは色々な所に政治技術者、つまり情報工作などで政治的に都合の良い状況を作り出すような人間を送り込んできた。そういった人たちが一般人に紛れ込み、その地の人たちを洗脳して政治的にロシア寄りになるように影響を及ぼしていく。クリミア半島をロシア連邦の領土に加える時も、先ずはそういったところから下準備が始まっていた。2013~2014年にウクライナで起こったユーロマイダン革命で当時のウクライナ大統領だったヤヌコーヴィチ氏が失脚しロシアに亡命すると、ロシアは混乱するクリミアに特殊部隊やコサック(軍事的共同体)を送り込み、クリミアの親露派達を利用しつつ、もともと国際法的にはウクライナの一部であったクリミアをロシアに編入するために都合の良い状況を生み出した。クリミア併合は、表向きは住民投票による住民の総意の結果だという事になっているが、実際には、ロシアへの編入に反対していたクリミアタタール人が投票出来なかったり、ロシア編入に賛成しなければ命の保証がないというような恐怖の中での投票が強いられたり、およそ公平とは言えない選挙だった。

――ロシアの政治技術者は日本にも存在するのか…。

 廣瀬 日本での活動については諜報関係が多いと聞く。私には経験がないので、あくまでも伝聞だが、たとえば大使館に籍を置いていると名乗り、日本の知識人やジャーナリスト、政権担当者に近い人物に接近して、一緒に食事をするような関係を築いていくそうだ。もらった名刺に記されていることは真実ではなく、アポイントの取り方も、いかにもというような怪しい方法で次の約束に繋げると聞いている。しかし、一般の人はそれをスパイだと気づかないケースが多いそうだ。日本人は基本的にそういったところでの危機意識が少ない。身近な脅威を、もう少ししっかりと認識すべきだ。

――ロシアでは反プーチン体制が力をつけてきているようだが…。

 廣瀬 アレクセイ・ナヴァルヌイ氏の毒殺未遂、ドイツでの治療後の逮捕・拷問、そしてナヴァルヌイ支持者が中心となっている反体制運動が大々的に報道されていることで、ロシアの内政が大変なことになっていると考えている日本人は多いようだが、実際のところ、当局がそれほど心配するような事態にはなっていないと思う。そもそも、ナヴァルヌイ氏自身にも少々怪しい側面があり、ロシアで絶大な人気がある訳ではない。もともと異常な程の愛国主義者で、かつては国内の少数民族や移民労働者など外国人を激しく弾圧するような発言もしていた。アムネスティインターナショナルは昨年暗殺未遂に遭ったナヴァルヌイ氏を「良心の囚人」(良心に基づく信念、信仰や人種、性的指向などを理由に、不当に拘束されている人たちのこと)と認定していたが、そういった過去の事実が発覚してからは認定を解除している。もちろんその情報はロシア側から出されたものであり、欧米がロシアの政治操作にまんまとやられたという評価もあるのだが、実際にナヴァルヌイ氏が怪しいと感じているロシア国民は多く、暗殺事件についても6割近い人たちが欧米のデマだと思っているのが実情だ。

――それでは、プーチン政権は現在も変わらず盤石なのか…。

 廣瀬 盤石とまではいかない。ナヴァルヌイ氏がいわゆる「プーチン宮殿」を動画で暴露した時も、それでプーチン大統領を軽蔑したというようなロシア国民はそれほどいなかった。ロシアでは、悪いのはプーチンではなく、プーチンのまわりの役人や政治家だという考えを持つ人が多い。だが、生活が苦しいという実状があるのも事実で、それが一向に良くならないことから、閉塞感や政権への不信感は確かに高まっている。とはいえ、今、プーチン大統領に代わってトップに立てるほどの人物はおらず、野党政治家はもちろん、与党政治家も信用できないとなると、このままでいる方がマシだという程度の気持ちで維持されている「安定」ではないだろうか。

――クリミアを併合した時、プーチン大統領の支持率は急上昇したが、政権を維持するために再びどこかにハイブリッド戦争を仕掛けるという事も考えられるのか…。

 廣瀬 それは判断が難しいところだと思う。これまでロシアは各地に人を遣って情報を掴み、その情報をもとに色々な展開を行ってきた。最初の目立つサイバー攻撃は2007年にエストニアに対して行ったものだった。その効果に味をしめたのか、2008年のロシア・ジョージア戦争では、戦闘と並行してサイバー攻撃や情報戦を展開し、まさにハイブリッド戦争の実践的練習を行ったといえる。だが、それに関しては、国際社会は大きな反応をしなかった。しかし、クリミア併合では、欧米が制裁を発動し、その制裁規模をどんどん拡大していったためロシア経済は大きな打撃を受けた。石油価格の下落もあり、仮にさらなる制裁を受けるとなれば、ロシア経済は深刻な状況に直面するという危機感がある。そのため、よほどのことがなければ、支持率向上のために新たな火種をあえて作るようなことはしないのではないか。ただ、ロシアが世界中にいかに影響力を及ぼしていくかという観点では、引き続きスパイとして他の地に人員を派遣するようなハイブリッド戦争への準備は行われており、最近ではアジアやアフリカなどへの動きも活発になってきている。特にアフリカについては、旧ソ連時代の影響力を取り戻したいという思いもあり、また中国との対抗から、ロシアの積極的な動きが目立つ。また、ロシアの影響圏が脅かされるような展開になれば、ロシアは勢力圏維持のために大きな動きに出る可能性もある。加えて、昨今のコロナ禍ではワクチンによる外交も大規模に進められている。

――ワクチン外交といえば、中国も行っている。現在のロシアと中国の関係は…。

 廣瀬 これまでロシアの勢力圏にあった中央アジアに中国が手を伸ばそうとしていることについて、ロシアは面白くないという思いもあるだろう。しかし、現在の力関係は明らかに中国が上であり、ロシアとしてもそれを認めざるを得ない。そのため、ロシアは多少不満があっても、それを表面に表すことはできない。むしろ、いかに中国に離されないようにしていくかいうようなスタンスで付き合っているところをみると、今はとても良い関係なのではないか。

――ロシアや中国が仕掛けているかもしれないハイブリッド戦争に備えて、日本が出来ることは…。

 廣瀬 昔の手法とは全く変わってきている現代戦を解明していくことが、日本の防衛にとって非常に重要になってきている。昨年はイージスアショアの問題が議論になっていたが、そういった大きな対策だけでなく、無人航空機(UAV)などの小さな兵器も含めて多面的に防衛を考える必要があるだろう。特に、今の日本はサイバー攻撃に対する防衛が脆弱で、どこから攻撃されているのかわからない、或いは攻撃されているのに長年それに気づいていないような状態だ。官民が協力してそういった対策に取り組む必要がある。また、日本人の特徴なのか、フェイクニュースに騙されやすい人が多いという部分においては、もっと国民の情報リテラシーを高めるような教育が必要だ。欧米では情報リテラシーの教育が子供のころから行われている為、特にヨーロッパのメディアリテラシーは高い。一方で、日本の水準は世界に比べて物凄く低く、何が真実なのかを理解する力が弱い。その辺りの教育をきちんとやっていかなければ、例えばフェイクニュースに騙されて親露派の総理大臣を選んでしまうといった事にもなりかねない。それが、まさに2016年の米大統領選だった。情報リテラシー能力を高める事。それが重要だ。(了)

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