慶應義塾大学
経済学部教授
経済学博士
木村 福成 氏
――TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)についてのお考えは…。
木村 TPPに限らず、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)や多数国間のFTAの交渉が最近さかんに行われている理由は、過去20年で国際分業の仕方が随分と変わってきたからだ。以前は産業毎に各国で棲み分けが出来ており、原材料と完成品が船などで時間をかけて安く生産国から消費国へと運ばれていた。それが1980年代半ばから、IT技術の発達も手伝い、例えば東アジアでは部品・中間財生産が各国に散らばって完成品に至るまでに色々な国を巡るようになるなど、生産工程・タスク毎の国際分業による貿易が盛んになってきた。さらにスピードと運搬コスト、信頼性が重要視されてきている現在の貿易において、各国間での統一したルール作りが必要になってきた。新興国や途上国としても、政策環境を変えることで投資を呼び込み、経済成長を加速させたい。ただ、国際ルールを作るにしても、それぞれの国がなるべく自国の制度に近いルールにしたいと考えているため、その交渉は容易ではない。日本のTPP参加交渉については、仮に日米間で交渉がまとまれば、それが国際ルールの大部分を占めることになる可能性が高く、日欧FTAやRCEPなどにも影響してくる。複数のルール作りの場に参加することができれば、国際ルール作りにおいて潜在的に有利となる。まさに、日本がTPP交渉に参加する意味はここにある。
――TPP交渉に参加することで、日本が有利な立場になるということか…。
木村 日本はこれまで、FTA交渉などでも農業の関税を守るために色々なことを行ってきたが、TPPは国際ルール作りの理想の下に、各国が色々な政策調整を行っていくものだ。海外からも、ようやく日本がそのような意識に変わってきていると評価されているのに、ここでまた「農業5品目の関税は譲らない」などと頑固に言い続ければ、それは以前と全く変わらない日本だ。また、混合医療廃止も非熟練労働者受け入れも、TPPにおける日本への要求に含まれる可能性は低い。しかし、日本自身にとってどうすべきなのかはいずれにせよしっかりと議論すべきだ。重要なことは、TPPに限らず、現在行っている貿易関連のルール作りは、新興国と途上国の貿易環境改善に主眼があるということだ。そこを履き違えてはいけない。
――TPP参加が農業に与える影響について…。
木村 関税やその他の国境措置を撤廃することになるのは明らかだ。そもそも日本の農業は他の国と比べて保護水準が高い。OECD各国の農業への保護水準(生産者支持推計)は平均約20%だが、日本は50%で、しかもその80%以上が関税等の国境措置であるというのは大きな問題だ。TPPをはじめとするFTAでは関税部分が重要な意味を持つため、国境措置があると交渉では非常に不利になる。国境措置をなくして代わりに国内補助金にすることは、TPPでの交渉力を強くするためにどうしても必要だ。論理的にも、関税という国境措置では輸入農産物価格と同時に国内農産品価格も上がるが、関税分を国内補助金として生産者に直接渡せば、輸入農産物は国際価格と同様に安いままで良く、消費者の負担も小さくなる。すべての関税を国内保護に切り替えても、農家への補償は年1兆円以下の支出で済むだろう。しかし、農協等、関税という消費者の目にわからないような保護の方が心地よいと思っている人達は、関税その他の国境措置を守りたいと思っている。
――農産品価格の表示方法に、関税がいくら加算されているかといった情報を付加されると、農協は心地悪い…。
木村 例えば、小麦は海外価格の約3倍で売られていて、小麦を使った食品もその分だけ高価になっている。消費税が3%上がるということで大騒ぎする日本人がこの値段に不満を言わないのは、関税で値段が何倍にもつりあがっているという事実を知らないからだ。ちなみに、米には約800%の関税がかけられているが、農水省の見解によると内外価格差は実際には200%程度になっており、すでに40%以下になっていると言う研究者もいる。理由は、中国米の値段が上がる一方で、日本米の価格は低下しているからだが、ここで日本政府は、国内米の値段の低下を防ぐために、米を作らなければ補助金をもらえるというおかしな減反政策を行っている。そのための補助金は毎年2000億円で、さらにそれとリンクしている戸別所得補償を加味すれば年間約6000億円が日本の米農家に支払われている。そういったことをすべてやめて、1兆円弱の補償金を直接農家に渡して関税をゼロにすれば、消費者の負担は大幅に下がるのだが、それを一番恐れているのは農協だ。農協は自分たちが米を買い取った時に手数料収入を得ていて、米の価格が下がれば手数料も下がる。それを嫌がっている。
――今ではインターネットなどを使って個人で売る農家も増えてきており、農協の存在価値そのものが段々と低下してきている…。
木村 もちろん、農業の中でも国境措置がかかっていないところはたくさんある。関税が数%程度しかかかっていない野菜類や果物類、水産物などはすでに国際競争に晒されており、現在の円安から輸出を前向きに考えてきている農家の人たちも出てきている。1ドル80円だったものが1ドル100~120円になれば、当然、輸出競争力は変わる。ちなみに1ドル100円というのは、もともと2008年の水準でそこに戻っただけなのだが、その間日本はインフレ率がマイナスで外国はプラスになっていた。そういう意味で現在の円は実質為替レートで割安になっており、輸出競争力も高まってきている。もう一つ、米の耕作規模と生産性が完全にリンクしていることから、効率性の悪い耕地面積の小さな兼業農家などへの補助を見直す必要もある。農家1軒あたりの農業からの収入は年間約12万円しかないといわれているが、兼業収入と各種補助金受け取りのため、平均的なサラリーマン家計より収入が多い。農家を弱者として保護するという理屈は少々間違っている。いずれにしても、TPPは農業改革を待ってはくれないため、まずは国境措置を撤廃して国内補助金に切り替えることに早く取り組むべきだ。そうすることで、日本は本当にレジームチェンジしたんだと海外に見てもらえる。
――日本のTPP参加には、中国のプレゼンスを抑制するという面もあるのか…。
木村 中国の中でも改革派と呼ばれる人達は上海機構を作ったり、アセアンとFTAを結んだりと、一生懸命、善隣外交を行ってきた。その努力が2010年以降、大きく損なわれてしまった。彼らがTPP交渉を意図して持ち出してくるのは、中国政治内で善隣外交を盛り返さねばならないと考えているからだ。TPP交渉が進めば日中韓やRCEPの交渉も進むだろう。RCEPには中国もインドも参加しているため、普通の関税を撤廃するだけでもかなり大きな経済効果が期待出来る。そういう意味でも、今の日本はTPP交渉を通じて有利な情報や条件を引き出せる非常に重要なポジションにある。国境措置という前世紀の問題が片付けば、日本のポジショニングは大きく変わってくるだろう。
――米国の本当の狙いは日本の保険市場、とりわけ郵貯の莫大な資金を取り込むことだと言う意見もあるが…。
木村 郵貯が今後どうなっていくのかはわからないが、個人的には、もともと民営化されるべきだったと思うし、簡保については政府系の保険会社と民間の保険会社の競争の問題と考えるべきだ。重要なのは、米国にとってTPPの一番の目的は日本ではなく、新興国・途上国のための国際ルール作りだということだ。米国があらゆる要求を日本にぶつけてきた日米構造協議とはかなり違う。さらに、先進国の中でも経済制度はそれぞれ違い、TPP加盟国の中でも米国と違う意見を持つ国はある。例えばニュージーランドにはかなり異なる医療制度が存在する。さまざまな分野において交渉していく中で、日本が世界的に見ておかしいところを指摘されたのであれば必要な改革を行い、逆に、理不尽だと思われる要求に対してはきちんとNOと言えば、良いだけだ。細かい交渉対応を考えていくことも必要となってくるが、まず今考えるべきは、外国も感じている日本のレジームチェンジを潰さないようにしていくことだろう。(了)