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「集団的自衛権は現憲法でも問題なし(下)」

西村あさひ法律事務所
顧問弁護士
元最高裁判事
元外務省条約局長
福田 博 氏

――一方、戦争自体はパリ不戦条約によって犯罪となった…。

 福田 不戦条約によって戦争は犯罪となった。ここで戦争の質的な転換が起こり、第二次大戦後、ニュルンベルグ裁判、東京裁判その他いろいろな裁判が行われてきたが、戦勝国による一方的な裁判であるとか、罪刑法定主義に反するなどという批判もあった。しかし、12年前にはオランダのハーグに「戦争犯罪」「大量虐殺」「非人道行為」の3つを裁判する常設の国際刑事裁判所も設置され、実際に犯罪行為を行った兵士たちや、現職の大統領も訴追されるようになった。最高刑は終身刑で、現在は日本を含む122カ国が加入している。国際司法機関が、国際法により個人を裁くという点でこれも画期的な意味を持っている。このような変化の中で、「同盟」という言葉の意味も変わった。もはや同盟は戦争に勝つための連合ではなく、お互いの安全を保障するための連携になった。もちろん、国連が自身の部隊を持ち、世界で何か問題があればその部隊が出動して治安を守るということが国連発足当時の理想であったかも知れないが、実際には冷戦時代から、安保理において常任理事国の拒否権行使が認められているというシステムの中で上手く機能しないケースが多く、多国籍軍の派遣などがその次善の策を担っている。そんな今の状況を考えれば、憲法9条が集団的自衛権の行使を制限していないことをはっきりさせておくことは重要だ。重要な問題は、日本が協力しあう相手がどこなのかということだ。私は協力できる相手国は民主主義国家でなければならないと考えている。今から220年近くも前の1795年にエマニュエル・カントという哲学者が書いた「永久平和論」という論文には「民主主義国家同士は戦争をしない」という趣旨のことが書いてある。まさに、日本が協力して安全を保つ相手は民主主義国家以外にない。すべての有権者が平等の投票価値を持つ選挙制度の中で多数を獲得して当選する政治家は、有権者が常に希求する平和を実現するための方策を探求するはずだからだ。非民主主義国と組むような事はあってはならない。

――米国が世界のポリスマンである役割を止めた今、世界では領土拡大の紛争が目立ってきており、もはや日本も集団的自衛権なしでは通れない…。

 福田 2001年9月に起きたいわゆる「9・11事件」の首謀者オサマ・ビン・ラディンは一昨年殺害されて事件は一段落し、またイラク、アフガニスタンなどでは限られた成果しか上げられなかったことなどを受けて、米国は世界のポリスマンの地位から退く考えをはっきりと打ち出してきている。冷戦終了で箍が外れて以来の大きな変化で、第二の箍が外れたということかもしれない。ある意味では、世界は、第二次世界大戦前の「何でもあり」の世界にある程度戻ってしまっているのかもしれない。シリア、ウクライナ、イラクなどで起こっている新しい出来事もこのような変化に対する反応とみることが出来る。我が国は、今回はバブルの中にはおらず、幸か不幸か、中国の南シナ海、東シナ海での行動などもあり、正面から、日本の安全保障の問題に取り組まなければならない状況におかれている。これで集団的自衛権についても真正面から議論出来るようになったのは良かったと思う。ただ、長年にわたり政治家が内閣法制局長官に国会答弁を丸投げしたこと、この20年以上にわたり内閣法制局長官がいわゆる「一体化論」に固執したことによる「付け」は大きい。政府が決めた集団的自衛権に関して現在行われているような議論や様々な事例研究は大変な回り道をしている。日本は安全保障問題にどのように対応していくのか。安全保障とはいつ何が起こるかわからない時のことも考えなければならないのであり、事例研究ばかりしていては駄目だ。

――国民の過半数は集団的自衛権の行使に反対しているが…。

 福田 国民の過半数が集団的自衛権の行使に対して反対しているということを忘れてはならない。そういった国民の意見の一部が法制局長官の間違った答弁に影響されている部分はあるのかもしれないが、「巻き込まれたくない」という国民の感覚は依然として強固であるというのが一番大きな理由であるとすれば、国民を代表する政治家はその願望を実現するためすべての知恵を絞るのが民主主義国家のあるべき姿であり、そうであればこそ、現在の世界で多くの国(総数の6割以上)が民主主義体制の国になっていると言えよう。憲法問題としてではなくとも法律や予算でコントロールするのも良いだろう。しかし、同時に「巻き込まれたくない」という感情はほかの国民にも同様に存在していることを忘れてはならない。外務省が毎年行っている調査の中で、平成25年度「米国における対日世論調査」を見ると、米国国民が今の日米安保条約を維持することに賛成の割合がここ数年で明らかに下がっており、2012年と2013年を比較すると、一般の部では92パーセントから67パーセントに、有識者の部では92パーセントから77パーセントに、それぞれ下降している。このデータが表すように、今の米国には自分たちが日本と近隣諸国間のいざこざ巻き込まれたくないと考えている人が増えているのも確かだ。そういった背景すべてを理解し、きちんと議論して、内閣が先に進めていかなければならない。そして、その内閣は国民の多数が支持するものでなければならない。平和のためには、真に民主的な選挙で選ばれた政治家による文民統制が必要で、その一票には今の日本のような格差があってはならない。投票価値の平等の重要性は私が繰り返し唱えている事であり、すべてはそこに行き着く。

――例えば再び戦争が勃発するとしたら、それはどういった状況か…。

 福田 戦争が起きるのは強力な軍隊が勝手な行動をする時か、軍を監督する政治家や政党そのものがおかしくなる時だ。国を率いる政治家が自らが好戦的になることなく、きちんと軍をコントロールして平和を守れば戦争は起きない。日本もドイツもイタリアも、不戦条約を破って第二次世界大戦に突入したが、日本とドイツでは原因が異なる。日本では明治憲法(大日本帝国憲法)第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」るという規定があることを根拠として統帥権には政府も帝国議会も全くこれに関与できないという慣習法が確立してしまい、軍は厳密な意味の統帥だけでなく、軍に関係する行政、政治にも発言し、関与するのが例となり、やがて政治の全体を支配することになったのはよく知られている。日本国憲法第9条2項には軍の勝手な行動を禁じるために「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるのは、まさにこのようなことを防止するための規定とみることが出来る。他方、ドイツには日本国憲法9条のようなものはないが、その代わりにドイツ基本法21条2項で、政党について「その目的または党員の行動が自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危うくすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については連邦憲法裁判所が決定する」と定めている。ドイツが戦争に走った主たる原因はナチスにあると考えていることが明白だ。私が最高裁判事であった当時、現職のドイツ連邦憲法裁判所裁判官から「ナチスのような政党の再台頭を防ぐことが連邦裁判所の最大の任務である」と聞いたこともある。ちなみに、現在の日本の自衛隊はかつての軍隊とは違って勝手な行動を起すような組織ではなく、自らが戦争を起すような事は考え難い。また、文民統制もよく働いている。憲法の規定を見ても、例えば、天皇は国政に関する権能を有さず、また国事行為についても内閣の助言と承認が必要とされており、自衛隊などの指揮権が戦前とは違い、内閣総理大臣および内閣であることも憲法で確保されている。そして66条には「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という文民規定がある。さらに言えば、戦前の軍は自分たちに都合の悪い情報を流さないようにしていたが、今は言論の自由や報道の自由が憲法で確保されており、それなりに機能している。大本営発表といったことも無い。常に重要な事は、シビリアン・コントロールに当たる政府が日本の国民多数の支持を得ていることだ。具体的には、政治家が投票価値の平等なすべての有権者の参加する選挙において多数を得た者が選ばれているのかどうかだ。しかし、民主主義をきちんと機能させる役目を持つ日本の司法にはこの点でまだ甘いところがあり、私はそれを一番懸念している。ここを、早くしっかりとしなくてはならない。(了)

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