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「山一破たんは『成功体験』が原因」

山友会(山一証券OB・OG会)
会長
永井 清一 氏

*【注】組織名、肩書き等はいずれも当時のものです。

――山一証券が自主廃業を決定した際のお立場は…。

 永井 山一証券は1997年11月24日に自主廃業を発表したが、私はその1カ月半ほど前の10月1日付で総務部長に就いていた。それまでは17年ほど株式の引受を担当していた関係で、破たんの引き金となった「飛ばし」については前々から何となくは感じていた。例えば、私は学習研究社の新規上場に担当者として関与し、上場後も同社の関係者とは親しく付き合っていた。「飛ばし」自体は山一証券の法人部門が主導しており、私を含め引受サイドは関与していなかったが、私が資金調達の提案などで訪問すると、当時の学研の副社長から「山一証券にすり寄られて大変なことになっている」などと愚痴をこぼされることもあった。損失を出してしまったファンドに対しては新規公開株式や新発転換社債、新発ドル建てワラントの重点配分などによって穴埋めが図られていたわけだが、まるで船内に浸水してきた水を柄杓で掻き出すような感じであったようである。

――穴埋めしようとしても、含み損の拡大は止まらなかったと…。

 永井 私は当時引受関係のMOF担も務めており、電源開発などの民営化案件で大蔵省の理財局を訪ねる機会も多かった。そうした際、大蔵省の担当者に「主幹事を務めさせてもらいたい」と言ったところ、担当者からは山一証券の国債の落札額が他社と比べて小さいことを指摘された。「全く落札できないウエストボールみたい」だとは彼の言だ。会社に戻り、当時の石川債券本部長に「もう少し国債を買ってくれないと主幹事が取れない」と伝えたが、石川債券本部長からは「あなたもわかっているだろう、例の件で毎月50億円ずつ資金が吸い取られており、大きい額を落札してしまうと資金がショートしてしまう恐れがある」との窮状を説明された。毎月50億円というと、年間では約600億円程度が「飛ばし」の金利の穴埋めに使われていたことになる。当時はドルベースで年6%程度の金利を支払っていたと記憶しており、推定すると1兆円近くが「飛ばし」の繰り返しで宇宙遊泳していたのではないだろうか。こうした事情があり、社内のホールセール部門では何かのっぴきならない事態が起こっているという認識がある程度共有されていた。一方、リテール部門の方へは本来分配されるべき新規公開株などのプレミアム商品がわずかしか配分されず、ホールセール部門とリテール部門の確執も激しくなっていった。

――巨大な含み損があるのではないかということか…。

 永井 自主廃業の約4年前に当たる1993年の9月には、会社の先行きを危惧した当時の木下企画部長が「沈み行く船」という題名の報告書を極秘裏に作成し、このままでは5年以内に経営に行き詰まると当時の行平会長に強く注進した。私自身は自主廃業後に入手したのだが、この報告書を手渡された行平会長の反応は「頑張らなければいけないな」と述べるにとどまったようだ。この「沈みゆく船」のレポートが5年以内と予告した通り、実際には4年2カ月後に自主廃業に至ることとなった。これは私の解釈だが、行平会長には返済に18年かかるとも言われた1965年の1回目の日銀特融をわずか4年あまりで返したという成功体験が強く残っており、また「神風」が吹くとの期待もあってその当時に置かれていた状況を甘く見たのだと思う。

――総務部長に就いた時には、危険な気配はあったか…。

 永井 引受から総務に移る直前には、資金部のスタッフから「金の流れを見ていると気持ちが悪くなる」との訴えもあり、何か怪しいなという気はしていた。私の引受としての最後の仕事はフジテレビの上場プロジェクトだったが、実はこの案件が行平会長と三木社長の交代劇の日程にも影響を与えていた。フジテレビは当初、1997年の8月28日に新規上場予定だったが、フジテレビ側が「8」という数字に拘り、どうしても上場日を同年8月8日金曜日にしたいとの要望を受けた。7月末には一連の顧客への損失補てん問題で山一証券にも東京地検特捜部の捜査が入ったわけだが、行平会長や三木社長は多額の含み損があることが表面化する懸念を持ち、この段階では辞任はやむを得ないと考えていたのだろうと推測している。ただ、手数料が約25億円にものぼるフジテレビの大型上場の直前に交代するわけにはいかないという意識が働き、結局は上場翌週の8月11日月曜日に経営首脳が交代することとなった。総務部長就任の際に、新任の野澤社長からは「利益供与事件で来年の株主総会を何とか乗り切るようにしてくれ」との指示があったが、2カ月弱で自主廃業に至り、結果的に「最後の株主総会」を指揮することになってしまった。

――破たん直前の山一証券の社内の空気は…。

 永井 1997年11月3日の三洋証券の破たんを受け、欧州では山一証券が11月下旬の3連休にも資金繰りに行き詰まるのではないかとの噂が流れていたようであるが、国内ではそうした噂は流れておらず、むしろ社内の一部関係者が意図的に流さないようにしていたとの見方もある。ただ、当局筋からもたらされた話によると、三洋証券の破たん後にとある政治家のルートから「山一証券が危ない」という噂が発信されていたようで、大量の空売りを浴びせられた山一証券の株価は大きく下値を切り下げていた。総務部の下にある株式課という株主対応の部署には、連日1000人近い株主から悲鳴のような電話もかかってきた。株価のテコ入れを目的に、山一証券社員が自社株を購入するための社内融資枠として合計4億6000万円程度が設定されたが、まさか会社が潰れるとは思わない社員の融資枠はあっという間に埋まってしまった。私は直前までホールセール部門に所属していたので会社の窮状をうすうす感じていたが、事情を知らない部下から提出された融資申請を私が止めてしまうと、経営状況が悪いことが周囲にばれてしまう。そこで、表情を極力変えないようにして融資書類に押印せざるを得なかったが、これは私にとって非常に辛い経験だった。

――振り返って見ると、やはり過去の成功体験で高をくくったことが失敗だったと…。

 永井 私もそれが大きいと思う。山一証券は楽観論に迎合しなければ出世できないような企業風土で、弱気なことを言う人間は賊軍と言わんばかりの株屋体質であったため、結局は都合の良いシナリオに傾倒してしまった。特に行平会長らは1回目の日銀特融の成功体験を目撃しており、だからこそ相場を甘く見たのだろう。今回は株式持ち合いの構造がまさに崩れ始めた局面であり、これまで固定されていた株が放出されて株価は右肩下がりの状況だったにも関わらず、上滑りな株屋の感覚でマーケットを判断してしまった。また、かつて山一証券の役員陣には主力3行から役員が来ていたが、全て返してしまったことで株式中心のプロパー役員のみとなり、発想が均質化してしまった。年次的にも同期入社のメンバーが中核となり、社内では「仲良しクラブ」と呼ばれていた。今流に換言すれば、コーポレート・ガバナンスが効かず、課題を「先送り」してしまったことが残念な気がしている。

――山一証券には自主廃業の道しかないと判断した大蔵省の判断については…。

 永井 仮にあの場面で支援を受けたとしても、かなり大規模なリストラが必要であり、かつ約1兆円にものぼる「飛ばし」を放置するなどコーポレート・ガバナンスが機能していなかった状況では自主廃業の判断はやむを得なかったと考えている。仮にM&Aで引き取り先を探すとしても、「飛ばし」の全容が分からないなかでは正確なデューデリジェンスも出来ず、やはり再建が難しいことには変わりなかっただろう。私の心情的には残したかったが、どこかの支配下に入って生き延びたとしてもかつての山一のような大手証券としてクリエイティブな仕事は出来ず、買収された後の過剰管理化した職場を去ることになったのではないか。

――自主廃業決定後の動きについては…。

 永井 当局から清算手続を早く実施しろとの指示もあり、自主廃業を発表した翌年1998年の1月から3月末にかけて段階的に規模を縮小していった。最初は小規模で顧客の預かり資産があまり多くないような支店から閉じていき、逆に大店の渋谷支店などの閉店は最後となった。私自身も1998年3月末での解雇通知を野澤社長の名前で貰い、そこからは臨時の雇用契約で1998年6月26日の最後の株主総会に主として関与した。山一証券を解雇された社員には退職金は確保されていたが、社員は新たな職探しに奔走した。山一証券で定年を迎えた人も3階建ての企業年金で月40万円程度が支給され続ける計算だったが、こつこつ積み立てた自社株を含めて全てが水泡に帰してしまった。私自身も山一証券から数えて合計9社を渡り歩いたが、私の経験から企業の最大のリスクは過去の成功体験が規範となり、それを次の事象にも当てはめてしまうことにあると考えている。また、最近も同様のケースが見られるが、「業界地政学」というべきものがある。業界トップを追う大手下位に位置するところは、業界トップを意識して組織に体力以上の負荷をかけ、売上高を伸ばすためにチェック体制をさじ加減するなどどうしても無理が出てしまう。拓銀もそうであったし、アメリカのリーマン・ブラザーズなども同じである。自主廃業から20年が経過し、社員は入社時には予想もしなかった人生航路を歩んでいることだと思う。やはり、経営中核に携わる人は、技術サイクルも早くなっているので、社員のためにも単なるこれまでの業界内の経営の延長線で考えるのではなく、常に新しい「知」と「血(人材)」を入れていくことが必要な気がしている。

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