金融ファクシミリ新聞社金融ファクシミリ新聞

金融ファクシミリ新聞は、金融・資本市場に携わるプロ向けの専門紙。 財務省・日銀情報から定評のあるファイナンス情報、IPO・PO・M&A情報、債券流通市場、投信、エクイティ、デリバティブ等の金融・資本市場に欠かせない情報を独自取材によりお届けします。

「名大は全学部で『起業家教育』」

名古屋大学
特任教授
河野憲嗣 氏

――名古屋大学がアントレプレナーシップを軸として新たな取り組みを行っている…。

 河野 名古屋大学は、23年4月にディープテック・シリアルイノベーションセンター(Dセンター)を開所した。Dセンターは、継続的に高度技術が社会をより良いものにしていく仕組みを作るために、学生が育つ場を提供する。24年度から本格的な活動が始まっている。Dセンターのプロジェクトの特徴は「大規模で超学部的なアントレプレナーシップ教育研究」だ。アントレプレナーシップ教育は一般には「起業家教育」と訳されるが、Dセンターではアントレプレナーシップをビジネスの世界にとどまらない価値観としてとらえ、学生が「急激な社会変化を受容し、新たな価値を生み出していく精神と行動力」を醸成することを心掛けている。昨今は一足飛びに課題の解決策を求めがちだが、われわれは基礎教育を手掛けているので、学生には「どこに課題があるのか」「課題の本質は何か」といった根本から考え抜く力を育てたいとの思いがある。

――Dセンターが目指す「起業家教育」はビジネスや学部にとらわれない…。

 河野 Dセンターは工学部が母体だが、個別の学部には属していない独立した組織で、学部間のシナジーが生まれるプラットフォームとして機能することも模索している。例えば、これまで1?2年次に全学教育科目で他学部の学生と交わる機会はあっても、専門性をある程度身に付けた3年次以降は講義の場で他学部の学生と交流する場面が限られてきた。Dセンターがアントレプレナーシップ教育を軸としたリベラルアーツを各年次に正課科目として提供することで、交流のきっかけになればとも考えている。名古屋大学は総合大学として多様な専門性を有しており、学部の異なる学生同士のつながりは学生にとっても財産になる。もちろん学内だけでなく他大学とのつながりも視野にあるが、現実的なアクションについては試行錯誤の最中だ。また、アントレプレナーシップ教育に関する研究も進めている。Dセンター自身がアントレプレナーシップを持って実践的に教育研究活動に取り組んでいる。

――Dセンターのアントレプレナーシップ教育の特色とは…。

 河野 今までのアントレプレナーシップ教育は、アントレプレナーシップを持つ学生、ピラミッドで言えば真ん中より上の層を主なターゲットにしてきたととらえている。つまり、アティチュード(気持ち)は高まっていて、これをビヘイビア(行動)に結び付けたい学生を支援するものだった。一方、Dセンターではピラミッドのすそ野の層の学生を鼓舞したいと考えている。名古屋大学にも、起業へのイメージが持ちにくい学生や「アントレプレナーシップ」という言葉を聞いたことがない学生は1、2割程度いる。そのような学生たちも基礎的な力は持っているので、まずはアントレプレナーシップという考え方を知り、どのように環境が変化しても自ら新しい価値を作り出せる人、自分で自分の価値を見いだし、他人の評価に左右されずに自分が好きなものを好きと言える人になってほしい。こうしたアティチュードに働きかけることはまさに教育だからできることだと感じる。

――関心の薄い層にどのように伝えるのか…。

 河野 Dセンターは起業に関心を持つ学生のすそ野を広げるため、日本の国立大学で初めて、全学部生が1年次に必修科目としてアントレプレナーシップ教育を受ける仕組みを設けた。名古屋大学は1学年約2200人なので、非常に大規模な取り組みだ。1年次の講義でモチベーションが高まった学生の受け皿として、2年次以降ではグループワーク形式の授業やゲストスピーカーの登壇も含めて、学生の関心の所在に応じて受講できる講義を準備している。私自身は「イノベーション基礎」という講義を担当する。例えば、「イノベーションは工学的な新規技術のことで自分には関係ない」と思い込んでいる学生に、「組織やプロセスのこと、既存技術の組み合わせであっても、既成概念を超えて世の中が一変するような取り組みはイノベーションだ」と、自分でも挑戦できるテーマだと感じてもらうところから始める講義だ。

――上級学年からはより実践的な内容に取り組む…。

 河野 3、4年次では自由度の高いゼミを用意している。経験を積んだ講師やスタッフと一緒に学部を問わず少数精鋭で学んでいくスタイルだ。大学院の授業もDセンターで提供している。例えば、文系の院生や学部生が半導体の設計・製造に直接関わるプロダクト開発実習のような授業の提供も検討している。人文社会科学系の学部生は、製造の現場を知る機会はほとんどない。自分たちの生活を支えているモノの成り立ちを知ることで、進路を決める時に「メーカーも面白そうだ」などと視野が広がるかもしれない。経済学部を卒業した後に銀行へ就職した私から見ても興味深いし、大学時代にこうした授業があれば受講しただろう。

――名古屋大学発ベンチャーの現状は…。

 河野 名古屋大学で起業する学生はまだまだ少ないと感じる。名大発ベンチャーの数は20年に過去最高の137社を達成したが、これは国内大学で8位にとどまる数字だ。大学発ベンチャーは、やはり東京の国立・私立大学で活発だ。名古屋には民間の優れた企業が非常に多いこともあり、ビジネスでも何か新しく起業する道を模索するより既存の大企業に活躍の場を求めて就職する道を選ぶ学生も少なくない。必修科目のアントレプレナーシップ教育を通じて進路には起業という選択肢もあると考える学生が増えてほしい。大学発スタートアップのIPO確率は通常の開業の場合と比べて200倍高いというデータもあり、夢がある。

――プロジェクトの可能性は大きい…。

 河野 今回のプロジェクトは、教育内容が充実しているのはもちろんだが、その前提として全学部生が必修科目としてアントレプレナーシップ教育を受講する環境を構築したことは特筆すべき点だ。私は以前、大分大学経済学部で社会イノベーション学科の立ち上げに携わり、24年9月からDセンターの特任教授を務めている。本プロジェクト立ち上げ後に参加しているため、ここで述べていることはすべて私見だが、ここに至る教職員や省庁の苦労や思いを感じる。教育は効果が表に出るのに時間がかかるが、まずはわれわれが提供する授業やイベントで挑戦心に火がついた学生が、卒業するまでにどのように大学生活を過ごすのか、卒業後どのように活動をするのかを見ていきたい。プロジェクトでは既に学生たちからの反応もある。私は昨秋からオンデマンドの講義を担当しているが、講義を受けていた女子学生2人からバイト先の注文周りのアプリ開発を考えていると相談があった。ちょうど今日も、男子学生3人が起業のアイデアを聞いてほしいとDセンターを訪ねてくれた。オンデマンド授業でも直接相談に来る今の学生たちの熱心さには驚くばかりで、まさに「後生畏るべし」だ。3人の男子学生たちは、「もっと起業の活動に取り組みたいが、バイトに時間を取られてしまう」という話の流れから「もし僕らが成功したら、ファンドを作って今の僕たちのような後輩を支援したいんです」とキラキラした目で語ってくれた。この名古屋大学Dセンターの取り組みが成功すれば、若者たちが既存の仕組みやシステムを超えて活躍できる社会を作るための一つの道筋が示せるのではないかと期待している。[B][L]

▲TOP