元法政大学教授
経済学者
水野和夫 氏

――「シンボルエコノミー 日本経済を侵食する幻想(祥伝社新書)」を著された…。
水野 1986年にP・F・ドラッカーが著した「マネジメント・フロンティア」にも既に記されているのだが、日本においてもシンボルエコノミー(金融資本市場)がリアルエコノミー(実体経済)を圧倒するようになってきた。そしてそれは、今の日本経済に大きな影響を与えている。例えば、正社員を解雇する事が難しいため非正規雇用を認めてほしいとの企業の声に応える形で労働市場の規制緩和が起きた。そうしたことで格差がどんどん広がってしまった。1990年代に日本のバブル崩壊や金融危機を経験した企業経営者は、将来の不確実性を理由に労働者に我慢を強い、その後も長い間あたりまえのようにその状態を続けてきた。日本人は皆、物分かりが良かったのか、それを搾取だと言う人はいなかった。しかし、個人が保有する金融資産を見てみると、現在の日本人の個人金融総資産が約2200兆円ある中で、日本人の20%強の人が「金融資産が無い」と言っている。調査機関は違うが1987年に金融資産が無いと答えた人の割合は約3%で、その間、貧困層が急速に増加するとともに、格差がますます拡大してきたことがわかる。そして、日本ではこうした社会の暗さを反映し、最近、中学、高校生の自殺者が過去最多となっている。
――金融資本市場が実体経済を大きく上回ってきたことで、貧富の差が大きくなり、それが国の分断や崩壊を引き起こしている…。
水野 米国では共和党と民主党の2大政党で、特に2014年以降は右と左にきっぱりと分かれて中庸がなくなり、妥協の余地もなくなっている。また、世界にはビリオネア(10億ドル超の純資産を保有する人)が2024年11月時点で2769人いて、その数も資産高も増えている一方で、世界の下位6割の人(47.7億人)は純資産を減らしているという調査結果が出ている。そして米国の格差は、統計調査の始まった1820年頃から広がり続けている。今、米国で一番問題になっているのが自殺、アルコール中毒、薬物中毒だ。これら3つをまとめた「絶望死」は1999年から急激に上がり始め、現在では米国10万人当たり45.8人となっている。フランスの人口統計学者エマニュエル・トッドの試算では、自殺者が10万人あたり30人を超えると国家危機が起こるとされている。実際にポーランドや東欧諸国、そしてソビエト連邦が、自殺率が上がり始めて約20年で国家が崩壊したというデータがあり、米国ではアルコール中毒死と薬物死を含む数字ではあるが、45.8人という数字は30人をはるかに上回っており、米国もすでに崩壊状態にある事が考えられる。
――今、世界中が危機的状況にある。資本主義社会の今後は…。
水野 露プーチン大統領や中国習近平国家主席は「国家権威主義」と言われて批判されているが、「資本主義」も同じような問題を抱えている。経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは「自分がやれないことを他の人がやってくれる。それをやってくれる人の苦労をきちんと評価して、正当な対価を払いなさい」とし、「シンパシー」という言葉で資本主義の正当性を強調しているが、サプライチェーンが確立している今の世の中で、例えば日本に輸入される鶏肉が地球の裏側のブラジル産だったとして、ブラジルで働く人たちに「シンパシー」を感じることが出来るだろうか。想像すらしないだろう。また、マルクスは資本主義の最大の問題を私的所有権にあるとして私的所有を国家所有に移すことを唱えたが、それもソビエト連邦の崩壊とともに失敗に終わる。唯一、今まで実行に移されていないのがケインズ論で「ゼロ金利になったら貨幣愛をやめなくてはならない」というものだ。ケインズは「貨幣愛は一種の精神病だ」というような過激な発言もしているが、言いたかったことは、「貨幣が必要なくなった時代においても、なお貨幣を追求する人は、社会から隔離しましょう」という事だ。これは、未だに実行されていない。
――現代経済の処方箋は…。
水野 先ずは過去の是正だ。日本は戦後から1999年まで労働生産性が1%伸びると賃金が0.7%上昇するようになっていたが、2000年頃から労働生産性に見合った賃金が払われていない。私の試算では、この25年間で総額約77兆円が労働者に支払われることなく会社の内部留保に積みあがっている。それを内部留保課税として徴収し、10年程度の時限立法を制定して年7.7兆円を国民に返還する。返還方法は色々あると思うが、例えば平均所得の中央値以下の人に対して所得税控除にしたり、或いは税金を払っていない人に対しては給付金にしたりすれば良いのではないか。現在の日本の労働者は約6000万人。所得が中央値以下の約3000万人に26万円が毎年給付されることになる(一括支給を希望すれば260万円)。1人当たり毎月2万円程度の給付金があれば、少しは生活の助けになるだろう。ここまでは過去の是正で、次は未来に向けて今後正当な賃金を払っていくための処方箋だ。先ずは労働生産性に見合った賃金がどの程度なのか、きちんと把握しておく必要があろう。現在の労働生産性は約0.5%の伸びにとどまっている為、実質賃金はその7割の0.35%上昇がベースだ。インフレ率3%だから、名目賃金上昇率は3.45%となる。連合が唱える「名目賃金を5%以上あげる」という数字はそれを上回っている。ただ、連合に加盟する700万人は大企業社員ばかりで、中小企業を含まない。
――中小企業で働く人たちについては…。
水野 「実質金利がゼロになったら、土地の利回りよりも企業の利潤率は低くならなくてはならない」というケインズ理論がある。人間に土地は作れず、地球の海と陸の比率を7対3から6対4に変える事など出来ないからだ。そして今、日本は実質金利がゼロで、東証のREIT利回りは約5%。資本金10億円以上の日本の大企業のROEは11%となっている。ケインズ理論で言えば、REIT利回りが5%であれば大企業のROEも5%以下で良い。そうすると、現在の大企業の当期純利益総額54兆円であって、その半分の27兆円で十分という事になる。そこで出てきた案が、過剰に多いROEを出している会社にROE課税をして国民に分配するような法律を作るという事だ。そうすると、企業はその分を人件費に回したり、下請け企業に正当な対価を支払ったりといった行動に移るだろう。これが、これからの未来の日本へ向けた処方箋だ。
――ROEを増やすというこれまでの行動原理を変えていく事が重要だと…。
水野 今のサプライチェーンは「より早く、より遠く、より合理的に」をモットーに、世界中で競い合いながら地球の裏側までモノを届けている。その結果としてROEが過剰に高くなっている。それを下げていくためには、先ず「より遠く」を「より近く」に変えていく事だ。そうなければ東京の一極集中もなくならない。また、「合理主義」を「寛容主義」にして、下請企業に対して切り詰め過ぎないような行動原理に変えていく。現在の生産様式を資本主義と命名したのはゾンバルトで、今後、資本主義に変わるものが出てくるのかどうかわからない。神を追放して資本主義となり、次は貨幣愛を追放して何が来るのか。それは、例えば人間主義だったり、地球主義だったり、持続主義だったり、何と命名されるのかわからないが、行動原理を変えて、皆で試行錯誤していくことで、100年後に生き残る新しい主義が出てくるのだろう。利益を追求しすぎた結果、人間関係が希薄になり自殺者も増加していくような今の世の中が、行動原理を変える事で、もっと生きやすく、幸福度の高い世の中に変わっていくことを願う。[B]